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インフォーミング・ジャッジメント
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VI VI. 南アフリカ共和国におけるHIV母子感染の抑止
 Reducing Mother-to-Child Transmission of HIV Infection in South Africa
Jimmy Volmink,Patrice Matchaba,Merrick Zwarenstein
川上 純一   富山医科薬科大学附属病院 薬剤部
VI. 南アフリカ共和国におけるHIV母子感染の抑止

Reducing Mother-to-Child Transmission of HIV
Infection in South Africa
Jimmy VolminkPatrice MatchabaMerrick Zwarenstein
訳:  川上 純一富山医科薬科大学附属病院 薬剤部  
エグゼクティブ・サマリー(Executive Summary)
序 論(Introduction)
政治的背景(Political Context)
ポリシーの論拠(Rationale for the Policy)
われわれからの報告書(Our Report)
反映と一般化(Reflection and Generalization)
文 献
用語集(Glossary)

エグゼクティブ・サマリー(Executive Summary)
 南アフリカ政府は,多くの関係者から,HIVに感染またはエイズを発症している妊婦から胎児への感染(Mother-to-child transmission: MTCT)を減少させるための抗レトロウィルス薬の使用に関する国家ポリシーを考案するように強く要請されていた。政府の考え方として,抗レトロウィルス薬の有効性(efficacy)が低いことと有害性(toxicity)に関する懸念があることを繰り返し説明していた。しかし,科学的なエビデンスとしては,抗レトロウィルス薬は胎児へのHIV感染の抑止に高い効果があり,少なくとも短期間ではこれらの薬剤の利益(benefit)はリスクを上回ることが示唆されていた。また,母子感染を抑止するために抗レトロウィルス薬を使用する政策は,医療行政にかかるコストの削減にもつながる費用対効果のよい政策であるという明確なエビデンスも存在している。

 1999年11月,医学研究協議会(Medical Research Council:MRC)に所属する南アフリカ・コクランセンターは,同国保健相Manto Tshabalala-Msimangから,HIV母子感染抑止のための介入に関するリスクと利益のプロファイル(risk-benefit profile)についての調査・報告を委任された。保健相は特に抗レトロウィルス薬の情報を必要としており,中でもジドブジン (zidovudine, AZT, ZDV, Retrovir)には最も関心を寄せていた。

 研究者(著者のJ.V.とP.M.)は報告書の基礎となった文献のレビューを行った。その結果,集中的な治療法であるAIDS Clinical Trial GroupのACTG 076プロトコールとジドブジンの短期間投与の双方とも感染リスクを減らす効果があり,この効果は授乳婦群でも有効であるとの有力なエビデンスが見出された。最も重大な副作用は,特にACTG 076プロトコールの初期において見られる貧血であったが,これは治療中止により回復可能であった。出生前後の時期にジドブジンを投与された子供における長期間での影響に関するエビデンスは見出されなかったが,nevirapine(Viramune)は比較的安価な薬剤であり,有効で安全であるとの限定的なエビデンスが得られた。

 この知見は1999年12月に保健相に報告されたが,政府は妊娠期間中に抗レトロウィルス薬を投与する方針をすぐに変更しなかった。研究者は報告書の内容について保健省の職員と議論したいと文書で要求したが,保健相はそれに対して回答しなかった。さらに,この問題に関して研究者らは保健相に何度も電話をかけたが連絡をとることはできなかった。

 本研究では,MTCT抑止のための抗レトロウィルス治療に関する研究者とポリシーメーカーとの関わりについて調査し,その背景にある政治的および疫学的な情報を提供とするとともに,ポリシーメーカーと研究者との間でのコミュニケーションについて習得した内容を要約した。妊娠中の抗レトロウィルス薬の投与についての科学的エビデンスは,南アフリカ政府が方針を決定する際の主たる要因ではないようである。それは,政治的な問題や過去の不確かな意見にもとづく固定化した見解によって妨げられているようである。ポリシーメーカーは,自分達の活動を正当化するためには,自分達の公的立場と反するエビデンスを提供する者を無視したり,彼らの公的立場を悪くしなければならないことがある。またエビデンスの作成者は,彼らの結論が既存のポリシーを支持しないことがひとたび明らかになれば,それ以降の政策研究からは外されてしまう。われわれは,エビデンスの詳細な要約を作成する前には,利害関係者(stakeholder)に関する徹底的な分析を行うことを推奨する。

 ある地域レベルのポリシーメーカーは,当初は政策研究の共同事業に参加すると同意したが,後に本報告書の内容に関してコメントせず,研究者による初原稿を読んだ後に理由を述べずに彼の名前を共著者から除外するように要請した。また,彼は多忙を理由に報告内容について討論されるワークショップにも参加しなかった。われわれの推測として,南アフリカのポリシーメーカーは,彼らの上司に批判的であると解釈されることを恐れて,政治的な問題に関わる内容には個人的な意見を述べないようにしていると思われる。したがって,この報告書は研究者のみの意見を反映している。
■□■  障害要因(Barriers)  ■□■
医療に関する意思決定に影響を与える問題を取り扱う研究者の困難さに対する理解の不足。
研究者によって行われた作業に対して最高レベルの国家のポリシーメーカーがフィードバックを提供しなかったこと。
最高レベルの国家のポリシーメーカーが,彼らの望まない研究結果が発表された後に,研究者との共同事業に意欲を示さなかったこと。
高い次元での政治的なトピックスに対して,中間レベルにある地域のポリシーメーカーが政策研究の共同事業に意欲を示さなかったこと。
■□■  推進要因(Facilitators)  ■□■
プロジェクトの早期段階における,最高レベルのポリシーメーカーと研究者との間の個人的なコミュニケーション。
特許を取得しているエイズ治療薬のジェネリック製品を南アフリカ政府が輸入することを差し止める訴訟。
■□■  学んだレッスン(Lessons Learned)  ■□■
南アフリカ政府における医療問題への意思決定に対して,エビデンスはまだ強力な要素ではない。エビデンスの重要性は政治的議論や過去の見解によって低く評価されていると考えられる。
根拠のない意見が政府のポリシーと一致し,科学的に強力なエビデンスが政府のポリシーに沿わない場合には,前者がより影響力をもつとみられる。
ポリシーメーカーは,彼らが受け取るエビデンスを予測して,コントロールすることは不可能である。また,彼ら自身の活動を正当化するためには,エビデンスを提供する者を無視したり,その公的立場を悪くしなければならないこともある。
科学的エビデンスを作成する者は,彼らの結論が既存のポリシーを支持しないことがひとたび明らかになれば,ポリシーメーカーによってそれ以降の活動からは外されてしまう。
研究者は,エビデンスが使用される可能性に応じて,研究計画を立てることが重要である。当初にエビデンスの評価が望ましくない結果を生む可能性がある場合には,研究が継続される可能性はごくわずかである。
詳細なエビデンスの要約を作成する前に,利害関係者に関する徹底的な分析を行うべきである。
序 論(Introduction)
■□■  南アフリカにおけるヘルスケア  
  (Health Care in South Africa)  ■□■
 南アフリカは,サハラ以南に位置する,経済的には中程度の人口約4,000万人の国である。350年間続いた植民地時代から,世界的にもよく知られた民主主義国家へと変化したが,人種と階級による世界で最も不平等な社会体制が残っている。近年,政府により民間企業や市場経済が強化されたことに伴い,国家のGDPへの寄与は減少し,むしろ利用する立場になってきている。ヘルスシステムでは,支出額に見合う効果が得られておらず,WHOが近年発表した健康状態の評価では191ヵ国中180位であり,ヘルスシステムの効率性(performance)でも175位である1)。これらのランクは,南アフリカよりも貧しい多くの国よりも下位である。

 南アフリカには民間と公共の医療制度がある。民間の医療制度は国内の医療制度全体の支出の約70%を占めている。4,000万の国民のうち,わずか700万人しか民間の健康保険に加入しておらず,残りは政府の援助に頼っている。1999年まで,民間の健康保険機能者は保険プランへの申込者や加入者を選択することが許可されていた。その結果,彼らは明らかに健康でリスクの低い人々を選び,リスクが認められた際には高額の保険料を請求した。非就労者や病気の人々など,増加する保険料を支払うことができない人は公的健康保険にまわされた。しかし,リスクと医療経費は公平に負担されるべきであるとの政府見解により,この不当な選択制は1999年の議会法令により廃止された。

 薬剤の費用は国家の医療予算の大きな割合を占めるため,必須医薬品リストに掲載されている薬剤のみが国により支払われ,コストを下げるためにジェネリック薬の処方が奨励されている。現在の危機的な状況の一例として,抗レトロウィルス薬の安価なジェネリック製品をインドのCipla社から並行輸入する提案と,製薬企業の特許は守られるべきであるとの主張がなされている。ジェネリック薬が入手不可な場合には,政府は薬剤を製薬企業に入札システムを通じてオーダーし,薬価は,通常,民間市場より少なくとも20%低くなる。

 国連エイズ合同計画(Joint United Nations Programme on HIV/AIDS: UNAIDS)の資料では,1999年において新たに540万人(うち子供が62万人)がHIVに感染し,HIV/AIDSを有する人の数は3,430万人(うち子供が130万人)である2)。また,流行開始時からの累計では,推定で約1,880万人(うち子供が380万人)がエイズによってすでに死亡している。

 サハラ以南のアフリカには,世界中の感染者のうち2,450万人(70%以上)が集中しており,HID/AIDSの患者に関わる不均衡な負担を負っている。UNAIDSの統計では,南アフリカはHIV/AIDSを有する人々が世界で最も多く,この国ではHIVに感染した成人は急激に増加しており,1997年の12.9%から1999年には19.9%に上昇している2)。エイズはサハラ以南のアフリカにおいて戦争よりも多くの人命を奪っており,1998年の統計ではエイズと戦争による死亡数はそれぞれ200万人と20万人である2)

 本地域におけるエイズ疾患による健康問題や,社会,経済への影響は深刻である。特に懸念されることとして,エイズ孤児の増加とその影響は,単に孤児数が増えたことだけでなく,国家にとって社会的および経済的負担が求められる。さらに,将来エイズを発病する感染乳児の治療は頻繁な入院治療が必要であるため高額となる。

 これらの結果,エイズはアフリカにおける安全保障上の問題であると考えられるようになり,2000年には国連安全保証理事会 の議題として取り上げられた(http://www.hivnet.ch:8000/grobal/intaids/viewR?562)。アフリカ大陸に著しく集中しているエイズ流行を抑止するための緊急対策が必要であることは万人が認めるところであろう。
■□■  HIV母子感染の抑止  
  (Reducing Mother-to-Child Transmission of HIV Infection)  ■□■
 エイズのMTCTは,主に妊娠後期,分娩時または授乳時に起こる3)。アフリカでは,全体のMTCTのリスクは25〜35%と推定されている4)。これは相当高い値であり,出生率が高いことも関与して,小児における感染の90%以上がサハラ以南のアフリカで発生している要因となっている2)。したがって,この地域ではMTCTの抑止のために,効果的で費用対効果のよい医療介入を大規模に行おうとしている。逆に,このような対策に失敗した場合は,医療,社会および経済的なコストは莫大なものになる可能性がある。以上のような状況から,本報告書の作成に携わった研究者は,抗レトロウィルス薬の情報に関する南アフリカ政府からの要求には積極的に対応した。
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