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第5章 総括
著者は,本研究において本邦における臨床試験の特徴を公表された数値データ等に基づいて分析した。
さらに,本邦の臨床試験のあり方に影響を与える政策が実施される場合に,そのような政策の評価をどのような観点から行うべきかについての枠組みを提案した。
第1章では,本邦における臨床試験の制度的枠組みを説明するとともに,本研究全体の視点,目的を提示した。
第2章では,1990年代の本邦において臨床試験がどのように分布していたかを医療機関に焦点を当てた分析を行った。
その結果,わが国の医療機関の臨床試験の引き受け方はその医療機関が属する施設のタイプによって異なることがわかった。
医療機関が一般医療において歴史的に果たしてきた役割は,臨床試験においても,比較的はっきりと保持されている例があることが明らかになった。
一方,試験自体の属性のうち,特に経済的なインセンティブにつながると考えられる変数と医療機関のタイプとの間に明確な関係は見出せなかった。
この結果は,本邦における医療機関の選択(医療機関の試験への参加)が,試験の費用的な側面ではなく,
試験実施の実際的な側面,たとえば医師のネットワーク,技術的制約等により決定されている可能性を示唆するものと考えられた。
第3章では,本邦の臨床試験の特徴および質を「欠陥」の観点から探ることを試みた。
すなわち,国内試験がどの程度GCPを遵守して実施されていたか,違反・不遵守があるとすれば,
その原因は何に求められるかを,公表されたデータに基づいて詳細に分析した。
その結果,旧GCP下の試験における致命的な欠陥である製薬企業のモニタリング,
監査が実施されていなかったことに起因すると思われる症例報告書(CRF)のエラーがきわめて多く発生していること等が明らかになった。
米国の規制当局FDA(Food and Drug Administration)のGCP査察結果との比較においても,
そのような特徴は際立っており,今回分析されたGCP違反・逸脱のパターンは,過去の試験システムの欠陥に由来するわが国固有のものである可能性が示唆された。
さらに試験の質に関して,新GCPの実施が狭義の試験の質および臨床試験に対する認識に与える影響を分析した。
その結果,試験の質に係る一部の側面は米国のそれに近づくが,バックグラウンドの医療制度の違いから,必ずしもすべての面で同一になることはないと考えられた。
第4章では,医薬品開発政策を評価するためのいくつかの観点を論じた。
まず,臨床試験実施に関係する費用と便益を,登場するプレイヤーごとに整理して提示し,
これをさまざまな評価の前提となる枠組みとして提案した。さらに,新GCPの導入という政策を例にとり,
本枠組みを効率性および分配的な観点の議論に適用して,それぞれの観点からの政策実施の評価を試みた。
また,プラセボ対照試験を巡る倫理に関する近年の議論に関して,本枠組みからのわかりやすい分析を試みた。
今後の研究の方向としては,次のようなものが挙げられる。
本研究における分析の結果は,本邦において収集可能な公開データがきわめて限定されていることから,
選択バイアスの可能性等を否定できないものである。データの限界を踏まえつつ,さらに有用な成果を得るためには,
定量化の方向をマクロのレベルからミクロのレベルに向けること,たとえば,選択された患者集団,一般国民集団における臨床試験の便益や費用に関する評価を行うことが考えられる。
また,因果関係を踏まえつつ,個々のプレイヤーへのインセンティブを分離して詳細な検討を行うことも今後の課題である。
第2章においては,たとえば,製薬企業の行動と医療機関・医師の行動を明確に区別することなく,
契約に至った結果を総体として分析している。収集可能な変数の制約からやむをえない面はあるが,異なるモデルを用いた分析はさらに可能であると考える。
政策評価の観点からは,今回主たる検討対象にした新GCPの実施という政策の長期的なperformanceを評価する研究が必要である。
たとえば,長期的に,開発成功に至る新医薬品の数はどのように変化するのか,
それらの質はどう変わるのか,さらに,今回提示した枠組み・観点から社会全体の費用・
便益のプロファイルは正であると主張しうるかどうか等を明らかにすることが主たる今後の課題である。
歴史的にみて,これまでの日本には,政策を実施する前に
「その政策を実施することで誰がどのくらい得をして,誰がどのくらい損をするか」という具体的な数字を踏まえた議論が起こりにくいという常識があった。
また,国民(あるいは利害グループ)一人一人の得失からあえて目を逸らし,「タテマエ」で事を運ぶことを美徳と受けとめる風潮があったことも事実であろう。
国,政府の無謬性の神話を信じる者はもはやいない。今こそ,こうした利害関係を明らかにしたうえでの損得勘定を踏まえた政策評価が必要である。