保健,医療に関する情報は膨大であり,正確な情報を入手するのは難しいことである。情報のなかには正確でないものも多く,伝え方がよくない場合もある。また,受け取る側にそれだけの力がないため誤って受けとめられ,健康や医療の水準を悪い方向におとしめる可能性もあるだろう。逆にいうとコミュニケーションを円滑にし,効率的にすることによって,医療や保健の水準を上げることもあるかもしれないのである。効果のない抗がん剤を開発するよりも,そのほうがどれだけ国民の健康に寄与するかしれない。
EBMには,evidenceを作り,評価・伝達し,利用するというステップがある。evidenceは臨床研究や疫学研究から生まれるが,われわれはそれを伝える努力をこれからしていかなければならないのである。
Index Medicusは1800年代末からある抄録誌である。東大図書館では現在のように情報検索にPubMed,Medlineを使用する前には,このIndex
Medicusが並んでいる書庫が入り口のところにあった。あるとき,Index Medicusの重さを量ってみたところ,抄録誌が1年間で50 kgを超えていた。現在,その情報量はこの何倍にもなっており,コンピュータを使わなければ見ることができなくなっている。この膨大な情報のなかから必要な情報をいかに見分けるかという観点から,Critical
Readingとか,Clinical Epidemiologyという,医師が情報をどう利用するかを教授する分野が出てきたのである。しかし,これが予防保健活動となると国民全体が利用することになるにもかかわらず,国民への教育はなく,国民を教育する立場の専門家の教育もされていない。
EBMのブームで,evidenceを作るということについては,医療関係者間にも理解が浸透しているといえるが,受け手がどう理解するかというevidenceを評価・伝達する視点が欠けている。どのような媒体に,どう発信するのか,つまり量と頻度と表現方法である。また,どの段階で発信するのかというのが医療では非常にクリティカルで難しい問題である。これらの問題にまだ答えはないが,いくつかの事例を紹介し,問題提起をしてみたい。
日本ではあまり知られていないが,1988年にPhysicians' Health Studyという大規模臨床試験にからんで起こったロイター報道事件について紹介したい。
Physicians' Health Study はアスピリンが心血管死を減少させるか,またβカロチンが癌の発生を減少させるかを検討するために,無作為割付け,プラセボ対照,二重盲検,2×2
factorialデザインで行われ,2万2千人の医師が参加した試験である。1988年1月27日のニューヨークタイムズ等の主要紙に,心筋梗塞リスクがアスピリンを摂ることによって半減するという記事が掲載された。
この結果は, 「Ingelfingerの原則」に従いNew England Journal of Medicine(NEJM)に報告された(N Engl J
Med 1989; 321:129)。国民に対する影響が大きいため,1988年12月18日に中止勧告が出た後,緊急報告として論文が書かれ,2週間で審査終了,3週間で印刷され,1月28日に発行されたが,このような迅速な対応はおそらくこれまでなかっただろう。
「Ingelfingerの原則」とは,NEJMが1982年に経験した苦い事件を教訓にして,編集者であるIngelfingerが作った原則である。これは糖尿病患者を対象とした大規模臨床試験であるthe
University Group Diabetes Program(UGDP)の結果から,経口の血糖降下剤を飲むことにより,心臓疾患死が増えるというデータが論文発表前にマスコミに流れてしまったため,医師のもとに,「私が飲んでいる薬はあれではないか」という患者が殺到しパニックになったという事件である。この時,医師は情報をまったく持っていなかったため,その後NEJMは,研究者や医療者に情報が十分行き渡るまでは,一般への情報公開は禁止するとして,逆にそれを守らなければ論文を載せないという方針を作ったのである。そして,この教訓に従い1月21日に印刷論文250部をマスコミに送付し,1週間後の28日を解禁日としたが,ロイターが解禁日前にこれを報道してしまった。これに対し,NEJMは情報送付停止という報復措置をとったが,この報復に対して,試験に参加していた医師の間から「私はこの治験に参加していたが,もっと早く情報を提供すべきではなかったか。NEJMのやり方はあまりにも硬直的ではないか。12月18日の段階で報道されていれば,全米で100人以上の命が救えたはずだ」と非難が起こったのである。
この事件は,情報の曖昧さとコミュニケーション,そして意思決定が複雑に絡み合い,慎重な対応を要求するという問題提示を含んでいる。そしてここにインフォームド・コンセントがからんでくることにより,さらに微妙な問題が生じてくるのである。
図1はNEJMに1992年に報告された論文から引用したものであるが(Lau
J, et al. N Engl J Med. 1992 Jul 23; 327(4): 248-54),最近よく教科書に載るようになった例である。
図1
(Lau J, et al. N Engl J Med. 1992 Jul 23; 327(4): 248-54より) |
プラバスタチン(メバロチン)は三共が創った新薬であるが,これによる脂質低下が心筋梗塞を減らすか,という仮説はスコットランドで行われた大規模臨床試験WOSCOPSで証明され,1995年のNEJMに論文が掲載されている。これも「Ingelfingerの原則」に従って情報開示され,11月の米国心臓病学会の翌日に新聞報道がいっせいになされた。記事はすべて用意されており解禁日をもって流されたわけである。
しかし,このときわれわれは8000例を目標として,メバロチンの有効性を日本人で検証するための臨床試験の登録を行っていた。われわれはこの情報を1週間前に入手していたが,もしこれが報道されたら,患者の同意撤回がいっせいに起こり試験が中止になるのでは危惧した。三共としても最善を尽くすということで,ぴりぴりとした緊張感のなか,マスコミ二十数社を集めてプレスリリースを行ったが,読売新聞の夕刊に小さな記事が出たのみで(図2),WOSCOPSの結果を伝えたマスコミはほとんどなかったのである。患者からの同意撤回もほとんどなかった。
図2
(読売新聞1995年11月22日より) |
「麦飯を食べたらコレステロールが下がった。したがって動脈硬化が改善する」等といった情報が新聞に載ることがある。これらの情報は比較のない1群のデザインであり,エビデンスレベルからするとほとんどゼロである。また,最近,インフルエンザ脳症に解熱剤であるボルタレンを使うと死亡率が上昇するという報道があった。正確な研究データは「オッズが10倍になった」のである。ところが新聞には「薬によって死亡が10倍になった」と出ている。オッズ比とリスク比を混同した例である。オッズ比とは,確率と1から確率を引いたものの比で,これが10倍になったのである。基本的な疫学用語であるが,情報発信側が科学的な専門用語を知らないためしばしば誤解して使われている。先の麦飯のように,最近のダイエットブームを反映して,何々を食べるとやせる,といったあやしげな情報が氾濫しているが,さすがにこれではいけないということで,医師や専門家の立場から「さまざまな健康情報から真実を見きわめよう」という記事が一般雑誌にも載るようになってきている。
このように,国民は健康,保健,医療に関する情報を欲しがっているが,それが正しく選択され,適切なタイミングで,受け手を考えて流されているかというと,そうではないというのが現実である。JMCAでは,11月に行われるシンポジウムと公開講座を,“医学論文等のメディカルライティング”と“一般向け医療情報伝達”の二つの側面から計画しており,そのワーキンググループを発足させることにした。また協会をNPO化し,速やかにホームページを立ち上げ,必要な情報を適宜会員に発信できるようにしたいと考えている。