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わが国の文化風土に馴染む臨床試験システムを求めて−中野 重行
はじめに

 私のテーマは「わが国の文化風土に馴染む臨床試験システムを求めて」です。こうした会ではあまり語られることはないと思いますが,欧米との文化の違いを考えながら,今後の臨床試験のあり方についての提案をしてみたいと思います。夢のような提案ですが,刺激語として受け取っていただければと思います。

日米文化の比較

 なぜ国際調和が必要かということですが,全世界のまず,太陽と月の表現を例にとって,日本と米国の文化の差を比較してみたいと思います。日本では太陽は赤色で表現されますが,米国では黄色く描かれます。米国で育った子供が日本に帰ってきて,黄色い太陽を描いたら「なぜ昼間から月が出ているのだ」といわれていじめられたという話があります。

 日本の国旗を見て,日本人は間違いなく太陽だと考えると思いますが,世界中の人が同じように太陽だと思うわけではなく,これは血を表しているのだと反応する人もけっこういるそうです。つまり,日本人は,太陽は赤いと感じており,文部省唱歌にもあるように「白地に赤く日の丸染めて」という感覚で生きているわけです。

 月の色は,実際には黄色ではなく,どちらかといえば白い色をしています。科学的に考えると,米国の子供たちが描く白い月の絵のほうが正しいことになります。しかし,太陽は真っ赤に燃えて,月は黄色い。このことをそれほど不自然だと思わずに私共日本人は受け取っている。文化の違いとはこのようなことなのだと思うのです。

 最近,国際化ということが盛んにいわれていますが,実際にどうすることが国際化なのかを考えると意外に難しいことがあります。例えば科学技術に関しては,文化とは違って人類共通の考え方や論理があります。生物的基盤に関しても,情動などといった共通の概念があります。

 この二つの中間にある文化社会的なものは,国によって大きく異なります。いままで私共がどのようなスタイルで,何に価値を置いて生きてきたか,つまり,どういう気持ちで生活しているかという,心の問題でもあるわけです。

今後の臨床試験の課題:創薬から育薬へ
1 支援体制

 このように明らかに存在している文化の差を念頭に置きながら,臨床試験のこれからのあり方について考えてみたいと思います。まず,「創薬」という,製薬会社や薬学領域でも使われている言葉があります。私共の厚生科学研究班(新GCP普及定着総合研究班,平成9年度)では,この言葉を使って,治験に参加する被験者を「創薬ボランティア」と呼ぶことを提案しました。目的を頭に出して,参加することはボランティア活動の一つであることを,参加者にはっきり認識してもらった方がよいのではないかと考えて提案したものです。厚生省でもこれを認めて「創薬ボランティアって何」という一般市民向きの治験普及啓発用ビデオも作成されました。

 一方,市販後の医薬品については,「創薬」というよりも,むしろ「育薬」という感じがよいのではないかと思います。薬そのものが育つわけではありませんが,より適切な使い方に関する情報が育っていくわけです。これをあるところでお話したところ,テレビ東京でオンエア(「知ってトクするくすりのすべて」,1999.2.11放映)されて,「育薬」という言葉が好評でした。「創薬」よりも「育薬」により反応する人が多いのは,日本人がもっている漢字文化の中で育った美意識だろうという気がします。

 「創薬」は非常にきれいな言葉なのですが,一般市民にとって自分で何かを創るという感じがなく,自分の問題として受け取りにくいようです。しかし,「育薬」となると,いままで薬というのはだれかが創ってくれるのだと思っていたが,「自分たちも一緒に育てていくのだ」というメッセージが言葉の中に込められていて共感するようです。

 そこで,大分医大では,治験外来(治験入院ベッドもあり)という名前を使わず,「創薬育薬クリニック」という名称を使っています。「創薬オフィス」という名称も使っていますが,「育薬」という言葉が生まれる前に作られたもので,将来的には「創薬育薬オフィス」に変えていくのがよいのかもしれません。また,大分医科大学および附属病院では「創薬ボランティア」の募集用ポスターだけでなく,「育薬ボランティア」を募集するポスターが貼ってあります。市販後の医薬品に関するいろいろな臨床試験,あるいは臨床薬理学的研究の被験者を求めているものですが,学生もよくこれに応募してきます。

日本独自の臨床試験システムの構築を目指して
1  求められる発想の転換

 さて,臨床試験の国際化は,米国や欧州,日本など,従来は各極がそれぞれ独自に臨床試験をして,各極で承認を得るというスタイルで進んできましたが,ICHミGCP以降,つまり,日本では新 GCP以降, core studiesを行ったうえで,各極でbridging studyで橋渡しをして,相互のデータが使えることを保証して,各極で承認する方向に動いているわけです。

 時間的,経済的,人的資源をすべて節約して,地球規模で医薬品開発を行おうということですが,日本はbridging studiesだけ行って,core studiesは海外で行えばよいのでしょうか。治験に関しては,インターナショナルなcore studiesを国内でも行えるようにしていく必要があると思います。市販後の臨床試験に関しても,プラバスタチンのwos studyのような試験が,なぜ日本で実施できなかったのかという反省があるわけです。

 今までの傾向として,日本は欧米に追いつこうとしてきたと思うのです。特に第二次世界大戦の終戦以降は,米国をお手本にして,無批判といえるほどいろいろなものを受け入れてきました。しかし,これからは発想を変えて,米国より優れた臨床試験システムを構築するという発想で進めていく必要があるのではないでしょうか。

 確かにここ2〜3年,先ほどの望月さんのお話にもありましたように,望月さんのご努力も大きいのですが,行政の方に動いていただいて,日本中が動きだしました。しかし,今まで日本の臨床試験の基盤整備に関しては,ほとんど動いていなかったから現在は動いているようにみえますが,国際的に欧米の現実を比較すると,まだ相当差が開いているし,いまだに差が広がっているのではないかという実感をもっています。

2 チーム医療へ

 臨床試験はいまピンチです。ピンチの時には,原点に戻って考えてみる必要があるのではないでしょうか。

 臨床試験の,あるいはより大きくとらえて医療の原点とは何でしょうか。野球を例にとってみましょう。野球を例にする理由は,新GCPの考え方もplayer basisで,チームを組んで臨床試験を行うという考え方になったからです。仕事の仕方に欧米流の考え方が入ってきたわけです。つまり,各プレーヤーが何をするのかはっきりさせて,治験責任医師が全体を統括してチームを組むという形になりました。治験責任医師が各プレイヤーの仕事を明記して,監督,指導するわけです。

 プロ野球選手が,例えば肩を壊したり,肘を壊して投げられなくなる。そういったピンチの後,彼らがやっと回復してもう一度復帰した後にしばしば語る言葉がとても印象的なのですが,まずキャッチボールからやり直すといいます。キャッチボールという,相手の受けやすい球を胸元に投げることから再び始めるということです。このキャッチボールの姿が,おそらく野球の原点なのだと思います。また,お互いにかけ声をかけながら,コミュニケーションを取りながら,試合に勝つという一つの目的に向かって,全員で協力していくことだと思います。

 臨床試験は患者のためにあるもので,堀先生が冒頭でお話しされましたように,患者にとって一番よい治療を探すために行われるものです。下山先生もお話しになりましたが,よい薬を開発することもその一環だと思います。また,すでに市販されている薬はエンドポイントを変えて,本当に患者さん,あるいは人類に役立つかどうかを調べることが必要です。

 今や,地球は一つになりつつあります。その地球上の限られた環境の中で存在している人類の健康をどのように守っていくかを考えていく必要があります。その中で,これから日本はどのような役割を果たしていくのかが問われていると思います。

 冒頭でも触れましたが,臨床試験を進めるためには,産・学・官・民の協力関係が欠かせません。私共は全員「民」の一部であるともいえますが,いくら一部だけが一生懸命頑張ってもうまくいきません。臨床試験とはそういう共同作業なのだと思います。

 ここからは夢のような話になりますが,例えば「創薬育薬プロジェクト 5か年計画」。5年という数字に根拠はありませんが,21世紀に私共はどのように国際貢献するのかと考えたときに,「創薬」と「育薬」は,日本に向いているテーマではないでしょうか。資源が乏しい中で頭を使うという,ソフトウェアで勝負できるテーマだと思います。

 一般市民に臨床試験のことを理解してもらうためには,臨床試験の関係者,つまり,私共自身が被験者として参加する臨床試験プロジェクト(例えば疾病予防薬の臨床試験など)を組むような試みも検討してみる必要があるのではないでしょうか。

 それから,治験コーディネーターですが,先ほど望月さんと倉成さんからもお話がありましたように,用語としてはCRC(Clinical Research Coordinator)とSC(Study Coordinator)の2種類があります。前者は臨床研究コーディネーター,後者は研究コーディネーターという意味です。

 欧米では看護婦が主体で,リサーチナース,スタディナースという言葉がよく使われています。英国のシスターというナースの資格をもった人たちがコーディネーターをしているケースでは,リサーチシスターといっています。このようにいろいろな名前で呼ばれています。

 今後,わが国にとって必要なのは,治験コーディネーターを超えたクリニカルリサーチコーディネーター,あるいはスタディコーディネーターといわれる人達なのだと思います。いずれは名称を変える必要があるかもしれませんが,まず治験の支援からスタートして,それをステップにして次の臨床試験をサポートしていき,日本でも欧米と比較して遜色のない臨床試験ができるようにしていきたいものだと思います(図1)。

図1 民・産・学をつなぐCRC/SC

 先程もふれましたが,治験コーディネーターは,欧米では看護婦が主体となっています。日本では薬剤師と看護婦の両者が主体となっています。ことの良し悪しではなく,日本の過去の歴史と教育のあり方から考えて,これにはそれなりの必然性があったと思うのですが,薬剤師と看護婦の両者でスタートしたことの特徴を生かすことが私共のこれからの大きなテーマになっていると思います。薬剤師のコーディネーターと看護婦のコーディネーターが,いかに補い合って治験コーディネーターの役割を果たしていくか。これが日本の医療の現場で問われているこれからのテーマだと思います。言葉としての「チーム医療」はわが国の医療の中にありますが,実際には同じ職種の中でのチームの組み方はトレーニングできていても,職種を超えたチームの組み方は,残念ながら十分なトレーニングができていないのが現状なのではないでしょうか。

 薬剤師や看護婦以外の人でも,臨床試験に興味をもった人がコーディネーターの職に入ってくることも結構だと思います。そうすることで,欧米のまねでない,日本独自の臨床試験体制を作っていければと考えています。治験コーディネーターには,産・学・民をうまくつないでいく役割が期待されているのだと思います。

3 IRB(施設内審査委員会)のレベルアップ

 具体的に,すぐに可能なこととしては,新GCPとして法制化されたこともあって「治験審査委員会」という名称になっていますが,治験の枠を超えて,今後は「臨床研究審査委員会」という方向へ発展させていく必要があるように思います。

 それから,現在各医療機関にはIRB(施設内審査委員会)があります。仮に,Central IRBとLocal IRBとに分けますが,基本的な科学性や倫理性をCentral IRBで審議して,Local IRBでは,だれが実施するか,あるいは何かあった時にはどう対応するのか,などの個別的,具体的な審査ができるようになってくると,科学性,倫理性の審査の質が向上するのではないかと思います。

4 治験への一般市民の参加に対して社会としての感謝を表明するシステムとしての「思いやりプラン」の導入

 1995年に,「思いやりプラン」というアイディアを発表しました。治験に参加した人に得点を与えるという制度です。これを提案した理由としては,日米欧の間の医療制度の違いがあることがあげられます。私共はいろいろなことをディスカッションしていますが,灯台もと暗しといいますか,自分たちの国の医療制度に縛られている部分の影響が十分に語られ評価されていません。自分自身には見えなくても,私共の心に馴染んでいる文化や慣習といったものがたくさんあります。欧米とは異なる日本の医療制度を考慮に入れると,国民皆保険制度で手厚くカバーされており,医療費が安い。医療の現場をみると,米国と比較して特にこの点に違いを感じます。

 そこで,日本独自の臨床試験制度として,「創薬育薬ボランティア」として臨床試験に参加した人に点数を与えて,その点数に相当する恩恵を与えられる制度を将来的に考えられないでしょうか。得た点数は,両親を含む他者にプレゼントすることも可能なようにして,いわば「思いやりバンク」という形で運営してはどうでしょうか。問題は具体的な運営の方法なのですが,これ以前に改善すべきことをしてから考えようということで,負担軽減費や,治験専門の外来を作る,あるいは治験コーディネーターを養成するなど,さまざまなことを先行させていままで進んできたわけです。

 正式なよりふさわしい名称は後で考えるとしても, placeboを用いた臨床試験が必要な場合でも非常に実施しにくいわが国の現状を考えると,この種の工夫が日本では必要なのではないかと感じます。

 さて,その場合の財源の話になると,すぐ国が動いてほしいという発想が出てきます。日本は縦割り行政で,かつ縦社会です。欧米のような横社会とは違います。ある程度は国に期待してもよいのですが,それだけでは動きません。臨床試験推進財団(仮称)のような公益財団を設立し,財源は製薬企業だけでなく日本中の幅広い範囲からの寄付で運営してはどうでしょうか。「1人の1億円より,1万人の1万円から!」というわけです。

 この財団の活動内容は,一般市民への臨床試験の啓発活動や研究教育活動,臨床試験を円滑に進めるための種々の活動をサポートしながら,国だけに頼らずに進めていかなければ,欧米よりよい臨床試験システムはできないのではないかと思います。既存の財団を活用するという方法でもよいかと思います。

5 失敗から学ぶシステムの構築を

 それから,日本の臨床試験システムを国際化という視点で考えるときに重要なことは,失敗から学ぶシステムを作ることではないかと思います。

 一つの参考例として,米国で1994年に起きた「ダナ・ファーバー事件」があります。ハーバード大学系の癌研究所で行われた抗癌剤の治験で,1クールの量の全量が間違って1回で投与されて死亡例が出た事件です。死亡したのは,ベッツィ・リーマンというマスコミの医療担当記者で,臨床試験に関して積極的に発言をしていた方が参加した治験での事故ということで大きな話題となりました。

 そのとき,再発防止へのすさまじい努力が行われました。内部調査と外部調査を行い,39の再発防止策を作成し,それを全米の臨床試験を行っている施設に知らせたのです。つまり,もう臨床試験はできなくなるかもしれないという大変な失敗の原因追及を徹底的に行って,将来の臨床試験に生かそうとしています。こうした失敗から学ぶ仕組みが米国ではうまく機能している点は,私共日本人も学ばなければならないと思うのです。

 わが国の歴史をひもとくと,何度も同じような失敗が繰り返されています。例えば,戦略上の要因としては,まず目標があいまいで,見通しが甘い。客観的事実を無視して,よいほうに解釈するなど,いろいろなことがあります。組織上の要因としては,責任の所在があいまいで,player basisでものを考えていく仕事にも慣れていない,意思決定や権力が偏っているなどが挙げられています(「失敗の本質:日本軍の組織論的研究」より抜粋,改変)。この本は日本軍の敗戦につながった組織上,あるいは戦略上の欠点から,とても欧米との戦争に耐えられるようなものではなかったという反省を行ったものです(表1)。

表1 わが国の失敗の要因
A. 戦略上の要因
  1. 目標(目的)のあいまいさ
  2. 見通しの甘さ
  3. 客観的事実の無視
  4. 視野の狭い戦略
  5. 技術体系のアンバランスさ
B. 組織上の要因
  1. 意志決定と権力:偏重した人的ネットワークに集中
  2. 責任の所在のあいまいさ
  3. 学習の軽視:自己改革できない組織

 現在の私共も,同じような失敗を繰り返しており,何か失敗があると管理責任者が出てきて,責任を取って辞職したり,土下座をして謝ると許してしまう。つまり,これは切腹文化の名残りなのでしょう。次の人に替わっても,どこが悪かったのかを徹底追及していないから,また同じ失敗を繰り返す。わが国のこのような体質を何とか変える必要があるように思います。

 失敗,あるいはうまくいかないことは,諸々の要因の結果として生まれているわけで,一つの連鎖だと考えられます。この輪の中の一つを取り除くだけでも失敗は防げるので,だれかが責任を取って辞めればよいという問題ではなくなります。先日の東海村の事故の話でも同じだと思います。

 今後,私共が追求すべきことは,失敗から学ぶこと,つまり,原因を徹底追及するということです。ただし,その場合に責任が伴ってくると,日本人はどうしても追及の勢いが緩んでしまいますので,無罰的にしないとうまく機能しない。日本文化とはそういう文化なのだと思います。この二つをはっきりと分けて,継続的な改革をしていくことがわが国の国際化にとって,特に重要だと思います。

日本的文化と欧米的文化の調和を求めて

 聖徳太子が「和をもって尊しとなす」と言っています。元々は中国文化を受け入れたのでしょうが,論語には「君子は和して同ぜず(君子和而不同)」とあります。「和する」と「同ずる」は全然違います。後者は付和雷同で,前者の「和」というのは違う音を出しながら,その音がハーモニーとなって,全く新しい協和音を生み出していくことだと思うのです。「和する」と「同ずる」の区別もうまくできていないところがしばしばあるのではないかと思います。

 個の調和を尊重しつつ,個としての自己責任を明確にしていくことが,これからの私共にとっての課題であり,一方だけでなく,両方をうまくしていくことが何にもまして求められているように思います。

 とても日本のことを気に入って,日本のことを日本人よりも知っているオリビエ・ジェルマントマというフランスの作家が,彼の著書の中で日本人に「なぜなのですか」と問いかけています。「異文化に心を開こうとすると,どうも日本人は否応なく自国の一部をあえて否認する挙に出たがるもののようです。しかし,いったい,なぜなのです。文化と文化は並び立たずというものではありません。相補って互いに豊かになるべきものです」。

 一例として,犬を巡る文化の差をあげてみます。ご紹介するのは,タロとジロです。昭和30年代の始めでしょうか,南極探検に15頭のカラフト犬を連れて行きましたが,天候が悪くなり,結局人間が引き上げざるをえないことになりました。その際に観測した資料は持って帰らなければならないけれども,犬までは連れて帰れません。いろいろ議論はあったようですが,結局犬を南極に残してきたわけです。その1年後に南極に行った隊員が,このうちの2頭が生きていることを発見しました。

 当時,犬を残してきたということで,特にイギリス人からは日本人は残酷だと非難されました。イギリスの考えでは,このような場合には犬を射殺するそうです。犬が自分で生きられなくなったとき,その責任は,飼っている人間の方にあると考えるわけです。そこで日本人のとった態度は相当非難を受けたそうです。

 しかし,日本人にはイギリス人のような発想は出てこないと思います。結果として,この 2頭は生き残りました。どのようにして生き残ったかは,いまだに謎なのだそうですが,これは「日本文化が欧米の文化に勝利した瞬間」という見方もできないことはないと思います。これからの国際化の時代に日本人にとって大事なもの,残さなくてはならないものと,欧米から取り入れるべきものを選びとり,調和させていくことがこれからの私共に課せられた仕事なのではないでしょうか。

 図2に示したように,私共は「和の心」と「漢の魂」を調和させて日本文化を作り上げてきました。科学的技術と科学的な考え方や合理的考え方は,進んでいる欧米から洋才という形で取り入れる必要がありますが,心や魂の部分は日本の方が優れているところがあったのだ思います。心と魂を失った国際化を進めていくと,根無し草になったり,精神的には米国の植民地化が進んでいくように思います。日本が国際社会の一員として,臨床試験を通じて人類の健康に貢献するには,日本文化の長所を生かすことを真剣に考えなければならないのではないでしょうか。

図2 日本文化と洋才の調和
図2
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