■治療学・座談会■
受動喫煙防止条例施行への道程 2/3
出席者(発言順)
藤原久義 氏(兵庫県立尼崎病院)
大和 浩 氏(産業医科大学産業生態科学研究所健康開発科学)
吉見逸郎 氏(国立保健医療科学院研究情報センターたばこ政策情報室)

わが国の受動喫煙防止の現状

■神奈川県の受動喫煙防止条例

藤原 神奈川県の受動喫煙防止条例は世界的な「スモーキング・バン」とは異なるかと思いますが, いかがでしょうか。

大和 2008 年 9 月に「神奈川県公共的施設における受動喫煙防止条例(仮称)」の骨子案が出されました。 対象が,第 1 種施設と第 2 種施設に分けられています。 第 1 種施設とは学校,体育館,病院,劇場,観覧場,展示場,官公庁,公共交通機関などで,利用者に選択の余地がない, あるいは代替性が低い所です。この条例が可決成立すれば,ただちに禁煙となります。 ただし第 2 種施設の飲食店やホテル,遊技場,サービス業などは,条例施行後 3 年間は適用しないとされています。 しかも,仮に施行されても禁煙または分煙のいずれかを選択してよいことになっています。これはバンには相当しません。

藤原 そこが非常に大事なところですね。また,一般の職場が含まれていません。

大和 「不特定多数の人が利用する場」だけと限定するのは,非常に問題です。 特に職場では,最低でも 8〜9 時間は受動喫煙に曝されるわけです。 真っ先に禁煙化する場所は,特定の人が長時間使う「職場」であるべきです。

吉見 職域に関する規制の権限は,おそらく県がもつには苦しい枠組みで, 国レベルで労働安全衛生法の流れで行うしかないのかもしれません。 そして,県としては健康増進の流れにならざるをえない。 条例化までの過程は,非常に困難で,ご苦心されているのだろうと察しています。

■禁煙推進学術ネットワークからの要望

藤原 神奈川県の条例について,11 の学会から賛意と若干の要望が出されました。 そのことについて,ご説明いただけますか。

大和 日本循環器学会が中心となって禁煙推進学術ネットワークの 11 学会から, 神奈川県の受動喫煙防止条例の素案に対する要望書が出されました。 最初に,職場の全面禁煙への要望が記されており,第 2 種施設の猶予期間の 3 年後にも職場は除外されている点が, 問題だと指摘しています。

藤原 遊園地なども入っていませんね。

大和 建物内禁煙になると,公園に喫煙者があふれることが予想されます。 すると,子どもたちが遊べなくなるので,市内の児童公園はもちろん,屋外テーマパークなど, 子どもが多く利用する場所も含めて,屋内外を問わず禁煙化をする必要があります。 この要望書のために,歩きたばこをする人の後ろを歩いた場合,高い濃度の受動喫煙を受ける,というデータまで集めました。 また,第 2 種施設として除外されているサービス産業についても, 従業員の健康を考慮し,先のばしにせずに一度に禁煙化してほしいと,要望されています。

藤原 裏付けとなるデータも提示されているわけですね。

大和 はい。飲食店内の喫煙席,禁煙席のデータも出しています。 利用者は禁煙の店を選べば受動喫煙を防止できますが,サービス産業の対策が遅れた場合, たばこの煙が充満した環境で働く従業員は高濃度かつ長時間の受動喫煙を強いられることになります。 医学会としては絶対に見過ごせないと思います。

■受動喫煙防止が最も必要な職場

藤原 健康増進法の第二十五条「受動喫煙の防止」には,職場のことが入っています。 職場での喫煙は,一緒に働く非喫煙者も長時間曝されるわけです。職場を除外するという感覚がわかりませんね。

吉見 県は健康増進などに関連する事業は行いますが, 職場の監督は,厚生労働省が各地域の労働基準局に託しています。 県内の職場を管轄する部署は県庁にあっても,それは国の組織で県の管轄ではないのです。 そのため,先ほどのように,県が職場を規制するかたちは実現しにくいことにもつながります。

大和 神奈川県の受動喫煙防止条例の骨子案にも書かれていますが, 「労働安全衛生法に基づく努力義務を課せられていることから,労使関係および労働安全衛生の観点から行われる措置を基本とします」と, 労働安全衛生法に委ねています。

吉見 この条例は,健康増進の流れで,ある意味究極の到着点として構成されていると思います。 労働安全という職場の問題に皆の意識を動かさないと,これ以上先には進みようがないと思います。 海外の例でも,公共空間の禁煙とは言っていますが,「職場であるかぎりは禁煙」という前提が付けられています。 日本もこの転換がまさに今必要なのではないかと思います。

大和 健康増進法でカバーされている空間には,「事務所」も含まれているわけですから, たとえ労働安全衛生法の範囲であっても同時に対象にできれば良かったと思いますね。

■検証しにくい受動喫煙防止の効果

藤原 神奈川県で条例化された場合,施行後の効果は得られると考えられますか。

大和 職場やサービス産業が除外されているかぎり, スコットランドの研究のようなクリアな結果は出ないと思います。 スコットランドの研究では,9 つの病院の調査でしたが,イギリスの最北端にあり, 医療圏として比較的独立した地域,300 万人という母集団,かつ,サービス業も含めた建物内禁煙だったので, きれいな結果が出たと考えられます。

吉見 国内では,喫煙規制されている場が分煙であったり,職場に対する規制がなかったりするなど, 有意な差が出るようなことはおそらく難しいのではないかと思います。

大和 神奈川県は首都圏という大きな医療圏の一部であり, 仮に完全な建物内禁煙化が行われたとしても,明確な結果は出にくいと思います。 県の中央部のいくつかの病院を選択すれば,明らかな結果が出るかもしれません。

吉見 少なくともデータに「変化がない」ということは, 逆に言えば「まだやることは残されている」というエビデンスにもなります。 それは論文や報告というよりは,何かを評価するという意義です。 曝露がどの程度か,それは循環器系疾患にどう影響するか,規制したならその効果は, というモニタリングができるようになるのが理想的です。

大和 仮に,北海道やある程度の人口のある島など, 地理的に完全に隔絶された場所で条例が実施できれば,受動喫煙防止条例の科学的な効果が期待できるかもしれません。

■たばこのイメージと現状とのギャップ

藤原 神奈川県はご苦労されていますが,日本ではなぜ条例化が困難なのでしょうか。

大和 この問題に関わるすべての人が指摘するように,たばこ産業の保護と育成を目的とする「たばこ事業法」が存在することです。

吉見 一般の人に「たばこの煙や臭いなどを迷惑に思ったことはありますか」と聞くと, 7〜8 割が「しょっちゅう感じる」という答えです。では「そのために規制するのはどうですか」との問いには,8 割が「賛成」と回答します。 「全面禁煙と法律で決めてしまうことはどうか」と聞いても,7 割が賛成なのです。 多くの人がそういう意識をもっていますが,報道などでは飲食店などの声が大きく,条例化に大きな影響を与えています。

 多くの人は「嫌だけれど,まあどっちでもいいや」程度に思っているようで,そういう背景も反映しているのかもしれません。

藤原 たばこは嗜好品という意識が強く,健康にどれほど影響があるかという考え方が徹底していないことも大きいように思います。

大和 カナダでは,レストランのウェイトレスさんが受動喫煙により肺癌になり, 「私の肺癌はあなたのせいよ」と言うコマーシャルがつくられました。神奈川県でも,社会的なコンセンサスを盛り上げてから, 条例化に臨めば,より円滑だったかもしれません。

吉見 能動喫煙はもちろんですが,受動喫煙にどういう物質が含まれ, 実際にどの程度影響を与えるか,受動喫煙防止法を施行した国では循環器疾患を減少させたなどの具体的なデータが, まだ十分に知られていないのも原因だと思います。 マナーや好き嫌いの問題に過ぎないと思われているのではないでしょうか。

大和 神奈川県の最終的な骨子案の名称は「受動喫煙防止条例」に落ち着きましたが, 当初は「神奈川における禁煙条例」とされていました。これでは「喫煙者に禁煙を強制する」という印象を与え, 余計な反発が起きてしまいます。最初から「受動喫煙防止条例」として議論していれば,摩擦は小さかったのではないでしょうか。

藤原 これまでの話の流れでは,スモーキング・バンの訳は「禁煙条例」でなく, この座談会でも使われているように受動喫煙防止条例のほうが良さそうですね。

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