藤原 喫煙と疾患発症との関連では,これまで能動喫煙でのデータが数多く出されてきました。最近,受動喫煙に関する興味深い検討がなされました。 本日は,“スモーキング・バン”,いわゆる公共の場における受動喫煙防止条例の制定に関して,お話を伺っていきたいと思います。
まずスモーキング・バンについて,大和浩先生からご説明いただけますでしょうか。
大和 スモーキング・バンとは,屋内すべて,そして屋内に準じる空間, つまりテラスやパティオなどでも完全に禁煙とする条例・法律を指します。 2007 年に中央労働災害防止協会が,受動喫煙の法律規制について調査を行っていますが, 日本と韓国以外の主な国では,スモーキング・バンが施行され,違反には刑事罰などで罰金が科せられます(表1)。 関連する法律は 2 つに分かれ,公衆衛生法の国と労働安全衛生法の国があります。
表 1 に記載されている国以外でも,イタリアやフィンランドをはじめ数十の国が, 建物内とそれに準じる空間を禁煙とする法律を施行しています。例外的に喫煙室の設置が認められる場合でも,周囲より 5 パスカル以上,気圧を低くすることなどの厳しい基準が設けられています。また,定期的に検査を受ける必要があるため, 実際に喫煙室を設けることはほとんどありません。
世界的な禁煙への流れからいくと,わが国は非常に立ち遅れた国だといわざるをえません。
藤原 東京都千代田区には,路上喫煙に対する罰則があります。完璧な全面禁煙だけがスモーキング・バンと定義されているのでしょうか。
大和 世界的には,建物内の喫煙を禁止することが“バン(ban)”といわれています。 日本は世界の一般的な対策の順序と異なり,屋内よりも屋外の喫煙の禁止が先行しています。 建物内ではいまだ喫煙が許可されていて,路上喫煙が禁止されている国は,おそらく日本だけだと思います。
吉見 たとえばニューヨークでは,まず室内が禁煙になり,道路での喫煙者が増え,逆に路上喫煙をどうすべきかが議論になっています。
藤原 建物といっても,医療施設や学校などの公的な場所と,飲食店などの商業施設があります。スモーキング・バンの定義では,公的な場所だけの禁煙でよいのでしょうか。
大和 フィンランドの場合には,1980 年代に病院や学校が禁煙になりました。その後,一般の職場が禁煙化され,最後に飲食店が禁煙化されています。
学校や病院だけの禁煙では不十分で,バンとは言えません。職場や飲食店など,すべてが禁煙になることが必要です。たとえばサービス産業も含めて禁煙化されたイギリスの条例では,「1 人でも働く人がいる職場であるかぎり(Premises are smoke−free, if they are used as a place of work.)」その空間は禁煙としています。
藤原 スモーキング・バンに対する理解は,吉見逸郎先生も同じでしょうか。
吉見 はい。ただし,日本では健康増進法があり,健康増進の観点から,受動喫煙を防ぐということになるかと思います。
米国などでは,健康増進の観点から受動喫煙防止の条例がいくつか施行されましたが,それが逆に業界から訴えられ,無効になるようなことがあったそう です。 ですが,経済状態のあまり良くない小さい飲食店などは自主的な対策が難しく,その結果,店によって著明な格差ができてしまい, 従業員の意志にかかわらず,喫煙の影響を受けざるをえないのは逆に不平等なのではないか, という理由から,“労働面での平等”という観点で,また条例ができていった,というケースがあります。
藤原 スモーキング・バンでは,家庭内はどう規定されているのでしょうか。
大和 海外の事例でも,個人が専有する住居部分は除外されています。
藤原 スモーキング・バンでは,分煙は認められないのでしょうか。
吉見 フランスなどには分煙室の記載はありますが,分煙室内で商業的なサービスを行うことは禁止されています。 われわれ日本人がイメージする「喫煙席」,「禁煙席」といった分煙スタイルではありません。
藤原 日本の空港などでは空調を設備するなどして対処していますが,それはスモーキング・バンでは認められていないのですか。
大和 受動喫煙防止法,つまりバン施行の国では,喫煙室の存在そのものが認められていません。喫煙室を認めている場合でも,日本よりもずっと厳しい基準があります。
藤原 スモーキング・バンによる効果が最近,科学的なデータとして続々発表されています。 公共の場や職場の法的禁煙規制は,循環器疾患発症を減少させるという結果も出ています。
吉見 2004 年の『BMJ』に報告されたのは,米国モンタナ州のヘレナのデータで, この町は医療機関が 1 つしかない小さな地域です。受動喫煙が循環器疾患のリスク因子であることはこれまでにも報告されていますが, スモーキング・バンという規制がどう影響するか,規制が訴訟により取り消されてしまったことにより, 奇しくも規制前,解除後,の変化も見えるものとして珍しいもので,心筋梗塞患者の入院数が約 4 割減少したことを報告しています。
2008 年 7 月末発行の『New England Journal of Medicine』には,スコットランド全土の 6 割強をカバーする病院が参加した, 急性冠症候群患者の病院搬送を評価した研究が報告されました。これは前向きの調査で, 条例が施行される以前から病院に依頼するなどの準備を進めていました。 患者の喫煙背景のデータも厳密にとられています。 条例施行前後で,同じ月の入院患者総数のデータを比較しています。いずれの月でも顕著に減っています(図1)。 全体では約 17%の減少が認められ,喫煙者では 14%,過去喫煙者では 19%,非喫煙者では 21%の減少でした。 全体の減少の 67%が,条例により急性冠症候群発症を防げた非喫煙者であることを示唆しています。
大和 スコットランドのデータは,同様の研究とは桁違いの 300 万人を対象とした研究です。 受動喫煙防止法を施行すると,短期間で心血管系の疾患が減少します。わが国でも期待したいところです。
藤原 非喫煙者の受動喫煙時間で,施行前は 0 時間の受動喫煙率 57%が施行後には 78%に増加し, 1〜5 時間の受動喫煙率 26%が 9%に,6 時間以上は 17%から 13%へ減少しました。 要するに,受動喫煙が劇的に減少したというデータで,非常に興味深いものです。 さらに,バイオマーカーとしてニコチンの代謝産物であるコチニンの量を調べています。 そこまで行っているスタディは非常に珍しいです。反論のしようがないというデータだと思います。
吉見 さらに,この研究は前向き研究としてプロトコールがあらかじめ設定されたものだったとのことです。 もしかすると,医療費適正化の流れによるレセプト分析が一般的になってくれば,国内でも追試できるかもしれません。
藤原 たとえば癌などに対する喫煙の影響はどうなのでしょうか。
吉見 規制の即効性の効果を検討できる疾患として, かつ急性の疾患となると,癌より循環器疾患になるかと思います。肺癌での評価は何十年もかかりますし, 法律導入の成果を判断するのは難しいと思います。 逆に言えば,循環器疾患だから,きれいなデータが出たのだと思います。
藤原 肺癌や COPD(慢性閉塞性肺疾患)なども対象になるとよいのですが, それにはデータ集計に 10 年,20 年とかかりますね。
吉見 さらに,癌という,比較的人生後期に発症する傾向にある疾患に焦点を当てるより, 現役で働いている若い世代を含めて,年齢別の結果を出せば,「禁煙は短期的に効果が出る」という強いメッセージになると思います。
藤原 たとえば,冠動脈造影を行いながらたばこを吸わせると, 数十秒後には冠動脈の攣縮が起こって,いわゆる冠攣縮性狭心症が発生します。 そういう意味でも冠動脈疾患は,研究に適した病気であるといえます。
大和 喫煙をやめることの効果が最初に出るのは循環器疾患だといわれています。 ですから,それとまったく同じ現象が,受動喫煙の防止でも起こっているということですね。
吉見 米国の公衆衛生総監報告の 2006 年度版が,受動喫煙についての評価を発表しています。 その結論の冒頭にも,肺癌以外でも循環器系への急性な悪影響があり, 冠動脈疾患を引き起こすと,“cause”という単語を使い断言しています。 そのメカニズムについても,循環器への影響では血栓促進作用“prothombotic effect”があり, 血管内皮細胞機能不全“endothelial cell dysfunction”を引き起こす,と表現されています。