人類の健康維持にとって優良な医薬品の使用は重要である。ある疾患の有用な治療薬が存在する場合, 世界のどの地域においてもその医薬品へのアクセスが可能であることが望まれる。 しかし,さまざまな理由により,ある国では使用可能な医薬品が他国では使用できないといった状況が存在する。 発展途上国では,主として経済的な理由から必要な医薬品を使用できない状況が生まれている。 一方,先進国においては,市場性の低い医薬品の開発が遅延する傾向があり, 医薬品メーカーのビジネス上の優先順位によるものと考えられている。 必要な医薬品が存在するにもかかわらずアクセスできないという問題に加え, 公衆衛生上の重要な疾患に対して医薬品の研究開発がなされていない, 医薬品の候補化合物はあるが臨床開発がなされていないなど,医薬品開発に関連する問題がある。 さらに,必要な剤形が存在しない場合や,ある効能効果が正式に認められておらず「適応外使用」となるために アクセス阻害が生じる場合もある。これら医薬品アクセスに関する問題は「くすりギャップ」(pharmaceutical gap)と 呼ばれる1) 1)津谷喜一郎(編). くすりギャップ:世界の医薬品問題の解決を目指して. ライフサイエンス出版; 2006.。
ある地域では販売されている医薬品が他の地域では使用できない, あるいは使用できるまでに時間がかかるという議論は,1970年代に米国で始まった。 1973年,Wardellは,「ドラッグラグ」(drug lag)という言葉を初めて用い, 米国における医薬品の上市がイギリスに比べ遅れていることを指摘した22)Wardell WM. Introduction of new therapeutic drugs in the United States and Great Britain: an international comparison. Clin Pharmacol Ther 1973; 14: 773−90., 3)3)Wardell WM. The drug lag revisited: comparison by therapeutic area of patterns of drugs marketed in the United States and Great Britain from 1972 through 1976. Clin Pharmacol Ther 1978; 24: 499−524.。 1962年から1971年に米国あるいはイギリスで上市された新医薬品を対象としたWardellの研究では, 対象82薬剤のうち米国で先に上市されたものが43薬剤,イギリスが先に上市されたものが25薬剤,同年が14薬剤であった2)2)Wardell WM. Introduction of new therapeutic drugs in the United States and Great Britain: an international comparison. Clin Pharmacol Ther 1973; 14: 773−90.。
これを契機にドラッグラグに関する研究は活性化し,当初米英比較が中心であった議論は国際比較へと発展した。 1992年のAnderssonの総説にみるように,主として1980年代に行われた一連の研究から, 先進諸国における医薬品の承認・上市状況にはばらつきがあることが明らかになった 4) 4)Andersson F. The drug lag issue: the debate seen from an international perspective. Int J Health Ser 1992; 22(1): 53−72.。 Anderssonは,この時期のドラッグラグ研究では異なる2つの概念の指標が用いられていることを指摘している。 一つは,どのくらいの医薬品が利用可能であるかを示す「絶対的ドラッグラグ」(absolute drug lag)であり,ある地域では対象医薬品のうちのいくつが上市されているかなど,数や割合で示される。 もう一つは,どのくらい早く上市されたかを示す「相対的ドラッグラグ」(relative drug lag)であり,世界初上市から当該地域での上市までの期間などで示される。
もっとも多数の薬剤を対象に多国間比較を行った研究は,1989年のParkerの報告である 5 5)Parker J. Who has a drug lag?. J Soc Admin Pharm 1989; 6: 138−52., 6) 6)Parker J. Who has a drug lag?. Managerial and Decision Economics. 1989; 10: 299−309.。 本研究では,1970年から1983年に上市された新医薬品722薬剤を対象とし, 相対的ドラッグラグの指標である世界初上市から当該地域での上市までの期間(arrival time lag)について,日本を含む先進12ヵ国の比較が行われた。 その結果,ドラッグラグがもっとも小さいとされた国は西独,次いでイギリスであり,米国は5位,日本は最下位であった。 同じ1989年,Keitinは1977年から1987年に米国あるいはイギリスで上市された新医薬品を対象とした米英比較について報告した7)7)Keitin K, Mattison N, Northington N, Lasagna L. The drug lag: an update of new drug introductions in the United States and in the United Kingdom, 1977 through 1987. Clin Pharmacol Ther 1989; 46: 121−38.。 Keitinは,米英ともに上市されている新医薬品の上市ラグ平均値は,イギリス28.9ヵ月に対して米国60.7ヵ月であり, 米国はいまだイギリスに遅れをとっていると指摘した。しかし,1970年代に比べ米英間の差が目立たなくなったこと, 米英だけでなく先進諸国における医薬品の承認状況にばらつきがあることが知られたことにより,以降,国際的なドラッグラグ研究は次第に下火となっていった。
上記のとおり,日本における医薬品の承認が欧米より遅れがちであることは一部には知られていたが, それを問題とする議論はあまりなされてこなかった。ところが2000年代に入り,海外で販売されているが日本では承認されていない, いわゆる「国内未承認薬」の問題が取り上げられるようになり,他国と比較した医薬品へのアクセスの遅れは, 1970年代の米国にならい「ドラッグラグ」という言葉で語られるようになった。
2005年以降,日本を含めた世界各国のドラッグラグに関する研究結果がいくつか報告された。 Danzonは,1994年から1998年の間に米国あるいはイギリスで上市された85品目を対象として25ヵ国の上市状況を比較し, 日本で上市されているものは13品目(15.3%)のみであることを報告した8)8)Danzon PM, Wang YR, Wang L. The impact of price regulation on the launch delay of new drugs-evidence from twenty-five major markets in the 1990s. Health Econo 2005; 14: 269−92.。 島谷は,2004年世界売上げ上位99製品の日本での上市状況を調査し,日本において上市されているものは61製品(61.6%)であることを報告した9)9)島谷克義, 須藤隆夫. 開発戦略における日本の課題. 医療と社会 2005; 15(1):43−50. Available from URL:http://www.iken.org/activity/paper/past/ h17/pdf/15-1-6.pdf [Accessed April 10, 2008]。 日本製薬工業協会医薬産業政策研究所(以下,政策研)は,2004年の世界売上げ上位品目のうち,同一成分の重複および検査試薬を除いた88製品を対象とした調査を行い, 日本で上市されているものは60製品(68.2%)であることを報告した。また,世界初上市から日本での上市までの平均期間(タイムラグ)を算出し, 日本のタイムラグは約4年であり,もっともタイムラグが短い米国とイギリス(約1.5年)に比べ約2.5年遅れていると指摘した10)10)福原浩行. 医薬品の世界初上市から各国における上市までの期間:日本の医薬品へのアクセス改善に向けて. 医薬産業政策研究所リサーチペーパー・シリーズNo.31. 2006. Available from URL:http://www.jpma.or.jp/opir/research/ article31.html [Accessed May 30, 2006]。
審査期間については,政策研により日米比較の結果が報告されている。 2005年,2006年に日本において承認された新医薬品の総審査期間中央値は,おのおの22.8ヵ月,22.7ヵ月であり, 米国(10.2ヵ月,10.5ヵ月)に比べ約1年長い11)11)安田邦章, 小野俊介. 日本における新医薬品の承認審査期間:2007年度調査. 医薬産業政策研究所リサーチペーパー・シリーズNo.37. 2007. Available from URL: http://www.jpma.or.jp/opir/research/ article37.html [Accessed Jan. 27, 2008]。 厚生労働省が自ら調査した審査期間の日米比較においても,日本は米国より約1年長いとされた12)12)厚生労働省. 第1回「有効で安全な医薬品を迅速に提供するための検討会」資料3. Available from URL: http://www.mhlw.go.jp/shingi/2006/10/ s1030-8.html [Accessed Otc.10, 2006]。
これらの研究は,売上げ上位品目,米英での上市品目など対象が限定されており,対象医薬品数は100未満と少数である。 ドラッグラグの現状が把握されたとは言い難い状況であった。しかし,日本で創製された抗癌剤oxaliplatinが欧米から10年以上遅れて承認されたこと, いくつかの先天性代謝異常症治療薬(laronidase,alglucosidase alfaなど)の開発が日本では行われていないことなどがメディアで大きく取り上げられ, ドラッグラグの問題はさらに国民の興味を引くテーマとなった。学会・患者団体からは, 厚生労働省に対して未承認薬の早期承認要望書が多数提出され,一方では,国内未承認薬の使用要望が高まり, 海外からの「個人輸入」の手段を用いる医師や患者の増加につながった。
本研究と並行して筆者らが行った未承認薬使用実態に関する調査研究では, 2005年に医師が地方厚生局の確認を受けて(薬監証明を取得して)個人輸入を行った医療用医薬品は, 美容目的の薬剤を除き242薬剤,5,428件に上る13)13)Tsuji K, Tsutani K. Personal imports of drugs to Japan in 2005: an analysis of import certificates. J Clin Pharm Ther 2008; 33(5): 545−52. 。 この242薬剤のうち10件以上の輸入が行われた未承認薬は44薬剤のみであったが,この44薬剤の輸入件数は4,713件と全体の約87%を占めていた。 また,44薬剤のうち18薬剤は抗癌剤であり,輸入件数では約67%(3,123/4,713)を占めていた。 抗癌剤18薬剤のうち14薬剤は学会や患者団体からの早期承認要望書が提出されている薬剤であり, 海外において標準的治療として位置付けられているにもかかわらず,日本において未承認である抗癌剤への集中がみられた。 代表例はthalidomide(輸入件数2,178件),bavacizumab(228件),bortezomib(99件),oxaliplatin(99件)などである。
「国内未承認薬」に対する社会的関心の高まりを鑑み,厚生労働省は,2005年1月「未承認薬使用問題検討会議」を発足させた 14)14)厚生労働省. 未承認薬使用問題検討会議. Available from URL:http://www.mhlw.go.jp/shingi/other.html# iyaku [Accessed Oct.10, 2006]。 本会議の目的は,(1)欧米での医薬品承認状況,学会・患者団体要望を定期的に把握し, (2)それらの臨床上の必要性と使用の妥当性を評価し, (3)必要性の高いものについては,企業要請等により早期の治験実施,承認申請へとつなげることである。 本会議は2007年12月現在までに18回開催され,合計42薬剤について開発を促進すべき(早期に治験が行われるべき,早期に承認申請がなされるべきなど)とされた。
日本における治験進行が遅いことがドラッグラグの一因であるとの指摘は以前よりなされており,厚生労働省は, 治験を円滑に実施するためのさまざまな施策を講じている。2003年4月には,文部科学省と厚生労働省が共同で「治験活性化3ヵ年計画」を策定し, 医療機関の治験実施体制の充実や企業の負担軽減に取り組んできた15)15)文部科学省・厚生労働省. 全国治験活性化3ヵ年計画. 文部科学省・厚生労働省; 2003. Available from URL:http://www.mhlw.go.jp/shingi/2005/06/ dl/s0630-7n.pdf [Accessed Oct.10, 2006]。 これを受ける形で,2005年3月より新たな「治験のあり方に関する検討会」が組織され, 治験を円滑に実施するために必要な環境整備などについてさらなる議論が行われた結果, 高度な治験・臨床研究を実施できる中核病院の育成や人材育成の必要性などを盛り込んだ 「新たな治験活性化5ヵ年計画」(2007年3月)が策定された1616)厚生労働省. 治験のあり方に関する検討会. Available from URL:http://www.mhlw.go.jp/shingi/other.html# iyaku [Accessed Jan.20, 2007], 17)17)文部科学省・厚生労働省. 新たな治験活性化5ヵ年計画. 文部科学省・厚生労働省; 2007. Available from URL:http://www.mhlw.go.jp/shingi/2007/03/ s0330-5.html [Accessed Jan.20, 2007]。
さらに,承認審査のあり方や実施体制に関する全般的な議論を行う目的で,2006年10月から2007年7月にかけて,「 有効で安全な医薬品等を迅速に提供するための検討会」が開催された18)18)厚生労働省. 有効で安全な医薬品を迅速に提供するための検討会. Available from URL:http://www.mhlw.go.jp/shingi/other.html# iyaku [Accessed Jan. 20, 2007]。
これら一連の検討会議の結果を受け,厚生労働省が打ち出したドラッグラグ解決策は,治験を活性化し, 審査官を増員することにより審査を迅速化するというものであった。具体的には,2009年までに審査官を236人増員し, 2011年までに新医薬品の開発から承認までの期間を2.5年短縮することが目標として掲げられ,厚生労働省,文部科学省, 経済産業省が共同で策定した 「革新的医薬品・医療機器創出のための5ヵ年戦略」に明記された19)19)文部科学省・厚生労働省・経済産業省. 革新的医薬品・医療機器創出のための5ヵ年戦略. 文部科学省・厚生労働省・経済産業省; 2007. Available from URL:http://www.mhlw.go.jp/houdou/2007/04/ h0427-3.html [Accessed May 10, 2007]。 2.5年という数値目標は, 前述した売上げ上位品目の調査結果(日本での上市が米英と比べて2.5年遅い)と 厚生労働省が行った審査期間の日米比較(日本は米国より約1年長い) に基づいており,申請までの開発期間を1.5年, 審査期間を1年短縮することによりドラッグラグは解消可能との見積りによるものである 18)18)厚生労働省. 有効で安全な医薬品を迅速に提供するための検討会. Available from URL:http://www.mhlw.go.jp/shingi/other.html# iyaku [Accessed Jan. 20, 2007]。
「2.5年短縮」という数値目標を含むドラッグラグ解決策の実効性には疑問がある。 売上げ上位品目を対象としたデータは全体像を表していない。売上げ上位にある薬剤群は, 高血圧治療薬,高脂血症治療薬,抗うつ剤などであり,製薬企業が積極的に開発・マーケティングを行うことから, 同じ作用機序を有する数種類の薬剤が売上げ上位に名を連ねている。一方,ドラッグラグが臨床的に問題となる治療領域は, 標準的治療法が確立されていない重篤稀少疾患,治験実施が困難な小児科領域である可能性が高い。 また,日本で承認されていない薬剤の中には,臨床的に重要と認識されていながら開発が行われていないものがあり, 治験促進や審査の迅速化では解決できない何らかの問題があることが推測される。
このように議論の基礎となるデータが不足している現状では,適切な施策を講じることもその評価を行うことも不可能である。 ドラッグラグの本質的な問題を理解し,適切な解決策を見いだすためには,全体像を把握し,要因について分析を行う必要がある。
以上の経緯より,以下の2つの目的で本研究を計画した。
- (1)米国,EU,日本におけるドラッグラグの現状 分析
- 新有効成分含有医薬品(以下,新医薬品)を網羅的に対象とし, 主要3市場のドラッグラグの現状について公平な比較分析を行う。
- (2)日本におけるドラッグラグの要因分析
- 薬剤の臨床的重要性の影響を含め,日本においてドラッグラグが生じる要因について示唆を得る。