>   >   >  第1回ファーマエコノミクスセミナー
■JPT ONLINE■
第1回ファーマエコノミクスセミナー

はじめに
 
小児予防接種,高齢者ケア,一般医診療などの医療サービスのうち,どこに重点をおいて資源を配分すべきか。また,それらの意思決定は,患者本人,行政,医療提供者のうち,誰の手にゆだねるべきだろうか。

 ファーマコエコノミクス(もしくは医薬品の経済評価)は薬剤使用のための資源と効果を関連付け,問題を明確に整理し,意思決定のための情報を与えるツールとして近年注目を浴びつつある。しかしながら,実際に医薬品の経済評価を行うにあたり,どのようなデータを用いて,どのような分析を行い,その結果を意思決定にどう利用するのか,日本では具体的な指標もなく,実際の活用例もあまりないのが現状である。

 それでは,どのように経済評価を行えばよいのか。その回答の一つとして,実践的な知識と手技を体系的に学ぶことを目的とした第1回ファーマコエコノミクスセミナーが2002年2月18日〜22日の5日間にわたり(財)日本科学技術連盟主催で行われたので,その内容を報告したい。


Problem-based learning(PBL)による学習プログラム

 このプログラムは,2001年5月にハンガリーのブタペストでオーストラリアのニューキャッスル大学やWHOも関与して開催されたファーマコエコノミクスの2週間コースを一部改変し,本セミナー用にアレンジしたものである。

 コースは表1に示したように7つの「体験モジュール」に分かれており,モジュールごとに講義が行われた後,平均5人の小人数グループに分かれて演習を解くといった問題解決を目的とした学習プログラムである。また,各グループには仮想の新医薬品に関する臨床経済評価を行う課題も与えられ,連日遅くまで発表準備に追われる5日間であった。

 以下,各モジュールで取り上げられた主な内容とそのまとめである医薬品採用の提案について簡単にまとめた。


モジュール1:費用対効果

 臨床経済評価で用いられる用語の解説と利用方法についての講義と演習が行われた。

経済評価の指標には「増分」(incremental)という考え方がある。これは,既存の治療法に対して,いくら追加費用が必要で,それによってどれだけ追加の結果が得られるかを評価するものである。新しい治療法に切り替えた場合,費用が安いのに,より高い効果(たとえば生存期間の延長)が期待される場合は“dominant”な選択として,逆に費用が高いのに低い効果しか期待できない治療法の場合は“dominated”な選択として,意思決定の対象にはならない。逆に,生存期間の延長が認められるなどの高い効果が得られるが,既存の治療法に比べて高価である,もしくは,多少効果の程度は劣るが,今までよりも安い費用で治療が可能であるといった場合に,このincrementalの概念を用いて,あと1年長く生存するために必要な費用はいくらかを評価する。

 臨床疫学領域で用いられる,NNT(number needed to treat)という用語は,あと1人助けるには何人に治療を行えばよいかを示す概念である。たとえば,アスピリンによる心筋梗塞の予防試験から,アスピリン投与例の死亡率が1.2%,プラセボ投与例の死亡率が2.0%という結果が得られた場合,そのリスクの差(2%から1.2%を引いた0.8%)を絶対リスク減少率(absolute risk reduction: ARR)といい,その逆数100÷0.8=125がNNTとなる。これは「アスピリンを125人に投与することによって1人が助かる」と解釈でき,このNNTを利用して,患者1人あたりの費用に乗じることにより,あと1人を救うのにいくらかかるかを示す増分費用効果比(incremental cost-effectiveness ratio: ICER)が計算できる。



表1 第1回ファーマコエコノミクスセミナー(2002年2月18日(月)〜2月22日(金),東京)
講師: 津谷喜一郎(東京大学大学院薬学系研究科医薬経済学)
福 田 敬(東京大学大学院薬学系研究科医薬経済学)
Ruth Lopert (ニューキャッスル大学医学部臨床薬理学)
モジュール1:費用対効果(In at the deep end!)
モジュール2:クリニカルエビデンス(Interpreting data from clinical trials)
モジュール3:QOLの評価 (Health-related quality of life)
モジュール4:システマティックレビューの利用 (When there's more than one trial)
モジュール5:コストの計算 (Costs)
モジュール6:経済評価のためのモデル (Modeling: Beyond clinical trials)
モジュール7:経済評価論文の批判的吟味 (Critical appraisal)
プレゼンテーション:医薬品採用の提案
主催:(財)日本科学技術連盟
後援:日本製薬工業協会
協力:東京大学大学院薬学系研究科・医薬経済学講座


モジュール2:クリニカルエビデンス

 骨代謝改善薬が例として取り上げられ,骨密度の変化,脊椎骨折の頻度,非脊椎骨折(たとえば手首や臀部骨折など)の頻度などの臨床結果が得られた場合,どの指標が臨床経済評価を行うのに最も適切かについて話し合いが行われた。

 臨床試験では血圧値や血中ウイルス量など,客観的に測定可能なsurrogate endpointが用いられることが多いが,臨床経済評価では日常生活に直接影響を与えるような臨床症状(intermediate endpoint)や死亡など(clinical endpoint)を効果判定の基準にすべきであるという。また,信頼できるエビデンスを得る方法としてチェックリストを使った臨床論文の批判的吟味の方法や,臨床成績を理解するのに必要な臨床統計学の基礎知識,たとえば有効性の信頼区間や有害事象発現率の有意水準の意味合いなどについても演習が行われた。



モジュール3:QOLの評価

 臨床経済評価の方法の一つに,患者の効用値を効果基準として用いる費用効用分析(cost utility analysis: CUA)がある。このモジュールでは効用値を測定するためのQOL評価尺度や,QALY(quality-adjusted life years,質で調整した生存期間)の概念について体験学習を行った。

 まず,健康状態に関する3つの仮想シナリオが配られ,参加者がそれぞれのシナリオについてのQOL値を4つの手法(time trade-off,rating scale,standard gamble,EuroQOL-5D)を用いて測定した。

 つぎに,評価尺度は現在,一般的尺度(Index型とProfile型)ならびに疾病特異的尺度に大別され,使用目的によって使い分ける必要があること,また,それらの尺度からどのようにQALYを導き出すのかなど具体的な計算方法についての説明が行われた。

 最後に,参加者全員のQOL測定結果がコンピュータ処理され,比較,報告された。主観的な評価であるため結果のばらつきが大きいこと,測定方法によって結果が異なることなどがビジュアルに示され,QOL測定の問題点,注意点等について学んだ。



モジュール4:システマティックレビュー

 医療の標準化を目指した診療ガイドラインの策定のために,近年注目されているEBM(エビデンスに基づく医療)と臨床経済評価との関連についてまとめた。臨床経済研究は,臨床的効果がすでに認められている医療技術(特に医薬品)に対して行われるものであり,臨床報告などのエビデンスを最大限に利用して行うものであるため,EBMは経済評価の基礎に位置付けられている。

 EBMの中心となるコクランライブラリーの利用方法やコクラン共同計画の日本での活動状況などについて紹介され,また,10項目のチェックリストを使って,事前に配布された臨床論文のどこにその内容が記載されているのか,また,その質は満足できるものなのかなど,グループ内で討論しながら実際のシステマティックレビューについて学んだ。これは限られた時間の中で,臨床論文の質を評価し,必要な情報を得るための良い訓練になった。

 さらに,各試験を統合してより信頼性の高いエビデンスを得るためのメタアナリシスの手法やその結果の解釈の仕方などを,コンピュータプログラムの紹介や論文の読み方などを通して学んだ。



モジュール5:コストの計算

 投入する資源いわゆるコストについては,平均コストと限界コストの違い,機会コストの考え方,直接コストおよび間接コストの分類といった基礎的な概念について説明があった。また,例示されたいくつかの疾患について,どのようなコストが考えられるか,視点(たとえば支払い者や患者)によって,それはどう変わるのかなどの演習も行われた。

 中でも,時間選好に基づく割引の考え方は最も難しく,今使う1万円のほうが1年後に使う1万円よりも価値があるという考えに基づき,一定割合で割引を行うというものである。しかしながら,現在のような低金利の時代では,1年後でも金銭価値が余り変わらないと考えられることや,便益(効果)も一緒に割り引いて感度分析を行う必要があることなど,素直に理解しにくい点もあった。

 また,日本ではコストに関するデータがほとんどない点も指摘された。諸外国では疾患別に1日あたりの費用に関するデータベースが構築されつつあるのに対し,日本では利用できるデータベースがない。日本では診療報酬点数に基づいてコストが計算されることが多いが,これが実際の市場価値を反映したものとは言いがたいなどの意見が出され,今後レセプトの電子化などによって標準的なコストに関するデータの蓄積が行われることが期待された。



モジュール6:経済評価のためのモデル

 臨床試験で1年後の効果に関する情報が得られた場合,3年後の効果を予測するにはどうすればよいのか。同じ効果が2年,3年と持続すると考えるべきか,それとも効果は最初の1年間に認められ,後は変化がないのか,もしくは1年を過ぎた時点で効果がなくなり,あとは悪化するだけなのか。比較的短期間の臨床試験から得られる情報をもとに予後を推定する方法として決定樹モデルやマルコフモデルが紹介され,実際のデータを用いてモデルを構築するエクササイズが行われた。

 決定樹モデルは一つの意思決定によって起こると思われる結果を列記し,それらが起こりうる推定確率と,得られる結果の価値から,最も好ましい選択を行うことを助けるツールである。この決定樹によって視覚的に表現することにより分析を容易にする。

 一方,マルコフモデルはより複雑な健康状態の変化を適切に表現するものであり,おのおのの健康状態とそれらの状態間における単位時間あたりの移行確率から,ある特定時間後の健康状態の分布を導き出す。

 これらのモデルの計算や作図を容易にするプログラムであるDATA(TreeAge Software, Inc)のデモが行われた。これらのモデルをうまく利用することによって,予後の推定といった時間的なデータの外挿だけでなく,人種や生活環境などの患者背景が異なる場合にも応用可能である。



モジュール7:経済評価論文の批判的吟味

 最後のモジュールでは,最初に経済評価を理解するためのチェックポイントとして何が必要かについて議論を行い,続いて2種類のチェックリスト(DrummondならびにCASPのチェックリスト)が紹介され,これに基づき臨床経済論文の批判的吟味を行った。それぞれのリストは何が問われているのか分かりにくい項目もあり,さらなる改良が必要との意見もあった。

 また,イギリスのヨーク大学のホームページに掲載されている臨床経済評価文献のデータベース(NHS Economic Evaluation Database: EED,http://agatha.york.ac.uk/nhsdhp.htm)が紹介され,世界中でどのような臨床経済研究が実施され,どのように評価されているのかを垣間見ることができた。なお,東京大学大学院薬学系研究科医薬経済学講座ではNHS-EEDとも協力し日本における臨床経済論文のデータベース(Japan Economic Evaluation Database: JEED)の構築を準備中とのことである。



プレゼンテーション:医薬品採用の提案

 本セミナーの総仕上げとして,各グループで行った臨床経済評価の検討結果の発表が行われた。各グループには4種類の仮想医薬品(喘息治療薬,インターフェロン,糖尿病治療薬,高脂血症治療薬)のうち一つが無作為に割り付けられ,その医薬品について,依頼された国の保険償還リストに採用してもらうよう評価委員に説明するといった設定で行なわれた。

 それぞれのグループの経済評価分析は,疾患や医薬品の特性を非常によくとらえたものであり,喘息治療薬であれば日中ならびに夜間の無症候日数を得るのに必要なコストの分析,インターフェロンによるmultiple sclerosisの治療であればマルコフモデルを用いて経時的に患者の自立度合いを推定し,それにかかる介護コストや間接コストの分析,糖尿病治療薬であれば合併症によるQOLの変化と死亡率を比較し,延命に必要なコストの分析,高脂血症治療薬であれば決定樹モデルを利用して心筋梗塞による死亡率を推定し,延命に必要なコストの分析などが報告された。ひとくちに臨床経済分析といっても疾患や医薬品の特性によってさまざまな分析方法が考えられ,非常に奥の深い研究分野であると実感させられた。



その他,オーストラリアにおける臨床経済評価データの利用について

 オーストラリアの薬剤給付制度はpharmaceutical benefits scheme(PBS)と呼ばれ,すべての承認された医薬品およそ6,000のうち約600がPBSリストに収載されている。その医薬品の費用は,患者の収入などに応じて定められた割合で償還される。また,このリストへの収載は,医薬品の安全性,有効性だけでなく,経済性も重要な評価項目であり,各製薬企業はガイドラインに従った経済評価データをpharmaceutical benefits advisory committee(PBAC)に提出することが義務づけられている。

 そのPBACの下部組織であるeconomics sub-committee(ESC)において,提出された経済評価データの質や内容の評価を行っている講師のLopert先生から,今後日本においてどのように経済評価データを利用すべきかを考えるため,オーストラリアにおける医薬品の経済評価の過去と未来についての話があった。

 その中で,オーストラリアではこのシステムによって医薬品の価格が比較的コントロールされていることや,医薬品採用のための意思決定が費用対効果(LYG: life year gainedやQALYあたりのコスト)に大きく依存していること,また経済評価のためのガイドラインが約10年前から存在しているにもかかわらず,提出されるデータの質はまだ十分なレベルではないことなどが印象に残った。



まとめ

 医薬品の経済評価がなぜ日本で必要なのか。

 新しい医薬品を医療現場などで使用するためには,既存の治療法に比べより早く症状を消失(緩和)させることができる,副作用の発現をより減らすことができる,などの臨床上のメリットを臨床試験などを通して確認しなくてはならない。

 経済評価は,この確認された臨床上のメリットを,患者や社会にとってどれだけ意味があるのかについて一定基準(たとえばQALYなど)を達成する金銭単位で表すことにより,他の治療法やあらかじめ投資した額との比較可能性を高める手段であるという。

 今回のセミナーでは,参加者の経験の有無にかかわらず,医薬品の経済評価に必要な共通の言語を学び,それらを使って参加者全員が共通の認識で討論し合えたことは,非常に意義のあることであった。

 講師を勤めた津谷喜一郎教授,福田敬助教授は,東京大学大学院薬学系研究科の修士課程の学生を対象にした医薬経済学特論(100分×15回)においても,同様の内容の授業を行っており,本セミナーの利点として,1週間のコースで集中力が維持でき,実質的時間数も約2倍となること,参加者が製薬企業などでさまざまな職務経験があるため,色々な視点からの意見が多く深い議論が可能であったこと,また,講義だけでなくグループ内や参加者同士の意見交換の時間が多く取られ双方向の授業ができたことなどの総評を述べた。

 今回のメインテーマは臨床経済評価の分析方法について基礎的な知識と手法を身につけることであり,体験型のセミナーは非常に効果的であった。しかしながら,臨床経済分析に必要なデータはどうやって集めるのか,予後を推定するための疫学データや疾病コストのデータはどこから入手するのかなど,臨床経済研究に必要な情報基盤の整備が他の先進諸国と比較し不十分であること,また,臨床経済研究で得られた情報が医療政策や医療現場の中でどのように意思決定に利用されるかが不明確であることなどが問題点として上げられた。

 今後このセミナーが,医療提供者(医師,看護婦,薬剤師など)や医療政策決定者(行政サイド)などが参加し,日本における医薬品の経済評価研究を発展させるための基礎教育の場になることを期待したい。