■治療学・座談会■
ブタインフルエンザ流行の検証と展望
出席者(発言順)
(司会)岩本愛吉 氏(東京大学医科学研究所先端医療研究センター感染症分野)
岡部信彦 氏(国立感染症研究所感染症情報センター)
河岡義裕 氏(東京大学医科学研究所感染・免疫部門 ウイルス感染分野)
工藤宏一郎 氏(国立国際医療センター)

岩本 H1N1 の新型インフルエンザが流行したことから,関連領域の第一線の先生方にお集まりいただきました。 私たちはここ数年,高病原性鳥インフルエンザの出現に注意を払ってきたので,ブタ由来の新型インフルエンザの出現はまったく予想外でした。

流行の検証

■2009 年 4〜5 月

岩本 今回の流行を振り返ってみたいと思います。日本に新型インフルエンザの情報が入ったのは 4 月後半だったでしょうか。 岡部信彦先生,日本感染症学会でのご講演では,発表スライドにすでに新型インフルエンザの記述があったとうかがっています。

岡部 4 月 24 日の感染症トピックスを紹介する教育講演でしたが, 「この数年間,SARS(重症急性呼吸器症候群)のような大きい出来事は幸いありませんでした」という結びに付け加えて, 「メキシコでインフルエンザ様症状の集積があるという情報,アメリカでブタインフルエンザのヒト感染例がみつかっているという情報があり, これが世界的な大きな問題に発展するかどうか,間もなく判明するでしょう」という 1 枚のスライドを最後にお示ししました。

河岡 WHO(世界保健機関)が新型インフルエンザが発生したと宣言したのは,24 日の金曜日でしたね。 その時は,ほとんどの人が身近な問題だという認識をもたなかったと思います。 個人的には,翌 25 日に米国 CDC(疾病対策予防センター)から連絡を受けて注目していたところ,翌週から急に情報が増加し,世界中に広がるという様相を呈してきました。

岡部 これまでにもブタのインフルエンザがヒトに偶然感染することはありましたが, 1976 年のニュージャージーでの例を除いてはまったく散発的で,ヒトからヒトへの感染もみられていませんでした。 ところが,今回は複数の場所に,地域的な結び付きが切れたように散在したことが,非常に気になるところでした。

岩本 それはメキシコ,カナダ,米国と,ほぼ同時期に問題になったという意味ですね。

岡部 ええ。メキシコでは感染者が 1 人,2 人のオーダーではなくて,同様の症状をもつ人が, 小さくても特定の町に集積している状態だった,ということは,すでに流行拡大の状態なわけです。だが,当時の情報の範囲では,そこまでは言い切れませんでした。

工藤 メキシコは,流行の開始は 3 月半ばくらいからで,4 月に入り急増しました。ピークに達したころに,あの WHO の宣言が出されました。

■国際保健規則(IHR)への報告

岩本 新型インフルエンザについて,これまで,どのように注目されてこられましたか。

岡部 香港インフルエンザが登場した 1968(昭和 43)年当時から, インフルエンザ分野の先輩たちは「次の新型インフルエンザの出現はいつか」と話題にしていました。 その後しばらくして,新興・再興感染症の問題が取り上げられるようになり,そして SARS の発生をみています。 未知の病気が現れたら,どのように対処するか,そのための情報をどうとらえるのかということが大きな関心事となりました。

 それらを経て,WHO の国際保健規則(IHR)の大幅な改正に弾みがつきました。 それまでの黄熱,ペスト,コレラといった特定の病気かどうかの監視から「原因を問わず,国際的な公衆衛生上の脅威となりうる,あらゆる事象」, つまり不明な病気や健康生活に危険を及ぼすような事象の集積があったら加盟国は WHO に報告をし, それらの意味を WHO は評価する,という新たな監視の仕組みができ上がったのです。これには,SARS 発生時の対応への反省が契機となっています。 メキシコは,この IHR に基づいて不明肺炎,インフルエンザ様疾患の増加といった情報を WHO に報告したのです。 相前後して米国の南カリフォルニアで,インフルエンザ様症状の子どもから, これまでにない A 型インフルエンザウイルスが検出され,CDC が詳細に分析して,インフルエンザウイルス A(H1N1)であるが, その遺伝子構造はソ連型とまったく離れたものであることがわかりました。

 メキシコの患者から検出されたウイルスも,米国 CDC とカナダで詳細がチェックされ,南カリフォルニアで検出されたウイルスと同一であったというように,話が展開しました。

河岡 ウイルスは,米国 CDC が最初に検出しましたが,同時にカナダでも,メキシコから運ばれたウイルスが同定されています。

岡部 メキシコ,米国とカナダは,バイオテロ対策の一環として, 不明疾患が出たときには互いに協力し合って調査をするという協力関係にあるようです。

 最終的に,新型インフルエンザウイルスは,ヒトからヒトへ,さらにヒトが動くことによって拡散し,欧州やアジアにも広がりました。 日本にもほどなく感染は及び,現在に至っています。これが,ラッサ熱やエボラ出血熱など,非常に重い感染症なら,人は動かず,地域的に限定されたものにとどまったでしょう。

■メキシコで患者が急増

岩本 工藤宏一郎先生はメキシコへ行かれたそうですが,状況はいかがでしたか。

工藤 メキシコは日本の 3〜4 倍の国土があり,人口は日本より少し少ない多民族国家です。 先住民のマヤ族や白人の富裕層など,格差の非常に大きい社会です。データでは,メキシコ全体に広まった疾患だとされています。 ただ,多く出た地域が 3 つくらいあり,メキシコ湾に面した地域から内陸部にかけてのところでした。

岩本 最初に発生した地域など,特定できたのでしょうか。養豚場の周囲で患者が増えたというようなことはなかったのでしょうか。

工藤 メキシコでは,気づいた時にはヒト−ヒト感染が蔓延し,しかも経済的に恵まれない貧民や極貧層, つまり医療機関を受診できないような人たちのなかで広がっていました。

 養豚場から広がったというより,メキシコは観光業が盛んで,旅行者が北米,欧州などから来ているので, 発生した場所は不明ですが,ヒトがどこからか持ち込んできた可能性は否定できません。また,養豚場の周囲といった話は聞きませんでした。

岩本 米国では,西海岸とニューヨークが最初に影響を受けたと言われています。順番は西も東もほぼ同時ですか。

河岡 はい,ニューヨークでの初の感染者はメキシコからの帰国者でした。

岡部 メキシコには,日本で言えば修学旅行のようなかたちで米国の学生が行き来しています。 高校生がメキシコからニューヨークに戻り,インフルエンザ様の症状が現れた。同じ学校に通っている高校生の兄弟が通う別の高校にも,その症状が出た。 それで,米国がこの疾患の広がりに気づいたようです。

■季節性インフルエンザと勢力を競う南半球

岩本 南半球は,オーストラリアが最初でした。状況はどうだったのでしょうか。

岡部 北半球は夏だったので,冬の大流行に比べれば,小さい規模でとどまっていると言えるでしょう。 南半球については,今後の北半球の動向を占う意味で,関心をもってみています。

 ただ,南半球は人口がそれほど多くはないので,ブラジル,チリ,オーストラリアの首都圏などでは患者が多く発生しましたが, 地域によっては季節性インフルエンザ並みといった状況もあるようです。 原因ウイルスも,新型インフルエンザウイルスにほぼ置き換わったような地域,季節性インフルエンザウイルスと半々程度のところもありますが, 全体として,新型の H1N1 パンデミックのほうが勢力をもってきているようで,あたかも H1N1 パンデミックウイルスと,季節性インフルエンザとが勢力争いをしているかのようです。

 一部には,そろそろピークを越えているのではないかとも言われています。

工藤 南半球でも人口密集度の高い地域では流行しているので,新型インフルエンザに季節性の要素が含まれたということでしょうか。

岡部 まだ,そこまではいっていないのではないでしょうか。

■効果のあった学級閉鎖・家庭待機

岩本 日本初の患者は,輸入感染症,潜伏期間中の帰国者からの感染ですね。 神戸では,流行はしましたが,わりあいに順調に収束したように感じましたが。

岡部 いいえ,かなりの大騒ぎになっていました。でも,当時の患者数は,インフルエンザとしては, 「わずかな」と言ってよいくらいのレベルの流行です。それでも,メキシコでの爆発的な流行,正体不明であるということで,危険性を含んだ可能性を考えねばなりませんでした。

岩本 初夏といえども。

岡部 ええ,初夏といえども。しかも初期には未知の感染症でした。 これは初期だが,初期段階だからこそ,厳しい対応策を実施するということになり,H5N1 も含めたガイドラインの「最悪の事態」がとられ, 学校での対策として,兵庫県全体,そして大阪府全体での,学校閉鎖が行われました。 これは世界中いろいろなところで想定された対策でしたが,厳格に実施したのは日本だけ,といってよいようです。

 学校を閉鎖しただけでなくて,発症者は軽くても指定医療機関での隔離入院でしたし, 家族も含めて,感染者あるいは濃厚接触者は自宅待機の要請がなされました。多くの方はこれを受け入れてくださったようです。 その結果は,当該校での患者発生の急激な減少だけではなく,患者発生の少なかった学校での発生も収まり,そして何よりも地域社会に広がることがなかった,ということになりました。 この意義は大きいと思います。

 しかし,いくら検疫を強化しても潜伏期間にあれば当然検疫では検知されませんし,ヒトからヒトへの伝播は,押し止めようがありません。 それで,ジワジワと広がってきたのが,6 月に入ってからのできごとです。

岩本 8 月の後半からまさに拡大し始めました。私などは,晩秋あたりまでまだ余裕があるかなと思っていたところです。

岡部 感染の拡大は,私は新顔の病原体に関するヒト側の感受性の高さの表れだろうと思います。 ただ私も,8 月に,季節性インフルエンザの場合の 11〜12 月の状況までになるとは思っていませんでした。 そこには,現在の若者たちの活動範囲が,以前と比べものにならないくらい広域になって,集団で動いているということも大きな要因になったのであろうと思います。 夏休みなら,合宿,イベントなど,一緒に行動する機会が多く,相当,増幅する場になったと考えています。

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