葛原 最近,診断と治療法が大きく進展している認知症,特にその多くを占めるアルツハイマー病(AD)を中心にお話を伺っていきたいと思います。まずは井原康夫先生,AD の発症機序がどこまで解明されたかについて,お願いできますか。
井原 アルツハイマーが 1906 年に最初の患者を報告して以来,約 100 年がたちました。最初の約 60 年は疾患単位の確立に費やされ,1980 年代から生化学,次いで遺伝学と,データが蓄積されていき,病因がかなり明らかになってきました。現在は総決算の時代に入ったと言えます。
その流れに大きく影響したのは,1992 年に発表されたアミロイドカスケード仮説です。 アミロイドβペプチド(Aβ)の蓄積が神経原線維の変化を起こし,それが原因で認知症をきたすことがはっきりと示されました。 創薬などは,現在もその説に沿って行われています。その後も研究は進歩し,1990 年代の終わりからはワクチン療法が検討されています。理論が臨床に応用され,しかもこれだけ成果を上げつつある疾患は非常に珍しいです。
葛原 パーキンソン病も,ドパミンや黒質変性などの関与が明らかになり,治療まで一気に到達したように思いますが……。
井原 パーキンソン病より,さらに透徹的な理解で治療法が確立され,治癒を見込める段階に近づきつつあります。
葛原 米国で ADNI(Alzheimer's Disease Neuroimaging Initiative)という大規模観察研究が進んでいます。臨床との関わりについて,岩坪威先生,ご解説いただけますか。
岩坪 アミロイドカスケード仮説により,AD の原因である Aβの蓄積に対する介入治療が現実化してきました。 この根本治療法(disease−modifying therapy)は,いわゆる補充療法とは異なり,疾患そのものの病理学的進展が減速しても,症候的な表現は同時に変化するとは限りません。 ですから,これまでの評価法がそのまま適用できないという大きな問題が浮上し,AD 本態の進展抑制の指標を求める動きが出てきました。
そこで数年前から,米国において ADNI という研究が始まったわけです。これは,軽度認知機能障害(mild cognitive impairment:MCI)から AD への進行過程を,症候,画像診断所見あるいは生化学的バイオマーカーなどを総合して,客観的に評価しようとする観察研究です。 つまり,評価基準の標準化を図る試みで,根本治療法開発をめざす治験のためのスタンダード作りと言えます。 2005 年秋に被験者の募集が開始され,2007 年半ばには 800 人の被験者が登録され,研究は順調に進んでいます。
国内でも日本人を対象とした評価基準の必要性が問われるようになり,日本版 ADNI である J−ADNI が始まります。 研究の基盤ができ始め,2008 年 3 月ころから被験者が募られる予定です。
葛原 健常高齢者もフォローアップの対象になるのでしょうか。
岩坪 はい,MCI があくまでも中心で,米国では 400 名,その半数の 200 名ずつの健常高齢者,早期 AD 患者を含め,3 群で比較検討されます。
葛原 観察期間はどれくらいでしょうか。
岩坪 AD はある程度の進行が見込まれるので全観察期間は 2 年ですが,健常者,MCI は 3 年間となります。その間に半年,後半は 1 年おきに MRI,PET など,さらに症候面では,神経心理学的な検査も行われます。血液,そして可能な場合には脳脊髄液の採取も行うという非常に系統的な検討が予定されています。
葛原 3 年間で健常者の発症,あるいは脳の萎縮の進行などは起こるのでしょうか。
岩坪 米国 ADNI では,MCI の約 20%が 1 年間に AD に進展しています。MCI を発症する率は健常者が最も低く,高齢者で 1 年あたり 1%と言われています。しかし,健常者が MCI,AD を発症する時点をどう検知するかが,将来的にもいちばん重要です。 米国の ADNI にも,健常者については長期フォローアップの計画があるようです。