萩原 私が行っていることは,肺癌のなかでの遺伝子診断です。肺癌では上皮増殖因子受容体(epidermal growth factor receptor:EGFR)の遺伝子変異があると,ある分子標的薬が非常に有効なのです。遺伝子変異をもつ確率は患者の 3 割程度で,年間約 1 万 5 千人に発見されると想定されています。進行性肺癌の平均生存期間は通常は約 1 年ですが,この変異をもつ患者に適切な薬剤が処方されると, 2 年を超えるほどに延長します。この遺伝子検査はとても有用なのですが,その実現にあたって明らかになった問題が種々ありました。
まず 1 つは,画像診断の進歩により検体が得られにくいことです。癌は体細胞変異なので,病変にアクセスできないと調べられません。 唯一可能なのは確定診断のためにごくわずか採取される細胞診検体で,それを実際の臨床検査のなかにどう組み込んでいくかが問題になります。
もう 1 つは,頻度が低い変異の検査が困難であることです。たとえば,自治医科大学の間野博行先生が発見された EML4−ALK という遺伝子変異は, 肺癌患者の約 5%にしか存在しません。その阻害薬が非常に有効だという中間報告がありますが,私の印象では,この 5%という確率は医療経済的な分岐点と思います。 これ以上低くなると,患者に自己負担をお願いしなければ,医療経済として成立しない規模になります。 すなわち,癌患者さんの生存延長をもたらす検査であっても,コストが大きな障害となります。 さらに,遺伝子検査は蛋白検査と比べ,経済規模が 2 桁違うそうで,検査会社の本音はあまり引き受けたくないようです。
さらに,遺伝子について患者や医師に適切に理解してもらうことに,かなりの時間と労力がかかります。 EGFR 変異検査の有用性は,基礎的なデータでは明明白白だと思われたわけですが,臨床応用までに 3 年くらいかかり, ようやく 90%程度の医師がその検査を実施するようになりました。 体細胞変異の検査は最も成功しているほうですが,それでも基礎と臨床を結びつけるのは困難だと感じています。
萩原 研究過程で,薬剤性肺障害の予測が個別化医療の対象となることがわかりました。 日本人肺癌患者の約 5%がある肺癌治療薬で薬剤性肺障害を起こし,そのうち 0.5%が死亡します。 注目すべきは,この薬剤性肺障害は日本人に特異的なのです。 欧米諸国のみならず,韓国・香港・中国にもないことが明らかになっています。 日本人だけ,かなりの割合で肺障害に関連する遺伝因子をもっているのです。
ただ,その遺伝因子研究のために,患者さんに検体提出をお願いするのは種々の意味で難しいです。 なぜなら,患者は重篤で,家族も気が動転しているという状況で,検体をいただかなければなりません。
まずは,薬剤性肺障害に関して,それが日本特異的であり,遺伝素因が関与しているという事実を知ってもらう必要があります。 また,日本がやらなければ解決できない問題だと理解してもらうことも必要で,それが非常に難しいと感じています。
厚生労働省の班会議のネットワークで検体収集に努めていますが,半年間で 10 例しか集まりませんでした。 個別化医療の基本を構築するだけでも,種々の問題があると思います。
松原 薬剤性肺障害は,薬剤の使用法が日本と他国が異なるからではないのでしょうか。
萩原 そうではないのです。同じ薬剤を同量使用しても,日本にだけ薬剤性肺障害の死亡例がみられます。 日本人にしか起こらない薬剤性肺障害は,その薬以外にも,抗リウマチ薬やブレオマイシンなど,何種類かあるようです。 海外に比べ,約 100 倍の頻度で,日本人に障害が現れています。
松原 単一遺伝子病では,韓国人,中国人はかなり遺伝的に近いという印象があるのですが……。
萩原 確かに近いですよね。それで,われわれも驚いたのです。厚生労働省の研究班は現在でも研究しています。 日本は孤島ですから,ランダム・ジェネティックドリフト(偶然の遺伝的浮動)やヘテロ接合性優勢で増えてもおかしくはないのだろうと考えています。
福嶋 福山型筋ジストロフィーが日本に圧倒的に多く,そういう例のひとつと考えられます。 それは“創始者効果”と言われ,可能性は十分にあると思います。
そもそも新薬のほとんどは欧米で開発されていて,第 I 相,第 II 相に日本人が入っていません。 ですから,薬物治療では,日本人に対する安全性は厳密にはチェックされていないと考えて行ったほうがよいと思います。
吉見 この条例は,健康増進の流れで,ある意味究極の到着点として構成されていると思います。 労働安全という職場の問題に皆の意識を動かさないと,これ以上先には進みようがないと思います。 海外の例でも,公共空間の禁煙とは言っていますが,「職場であるかぎりは禁煙」という前提が付けられています。 日本もこの転換がまさに今必要なのではないかと思います。
萩原 薬剤性肺障害のような隠れた疾患が民族として存在するという気がしますので,個別化医療のなかに,民族別医療も含まれるように思います。
萩原 福嶋義光先生,倫理的な側面からお願いできますでしょうか。
福嶋 まず私も小児科出身で,ダウン症候群,18 トリソミー症候群などの染色体異常症,つまり治療法のないものを対象に,主に診断について臨床研究を行ってきました。
染色体検査は,昭和 50 年代ぐらいから保険診療が可能となり,その情報を家族に伝えてきました。また,次子をもうけるときにもその情報が利用できました。 染色体異常症では,病気そのものが重篤だということ以外に,遺伝性疾患,遺伝子や染色体に変化があるということで悩む方がきわめて多いです。 それは,遺伝のとらえ方が,日本は特殊だからだと思います。つまり,専門家以外は,遺伝子が完璧な人は存在しないということを理解していません。 日本人のほとんどは,正常な人と異常な人がいて,異常な人にだけ遺伝子の変化が起きていて,遺伝の問題は自分とは関係ないと考えています。
一人ひとり顔が違うように遺伝子も違い,その遺伝子の違いによって薬が効いたり,効かなかったり,糖尿病になりやすかったり, なりにくかったりしているという,共通理解が必要です。日本は,おかしな平等主義というか,国民すべて平等と考え, 「同じ医療費を払っているのだから,隣人がのんでいる薬と同じものをください」となることが多い。そのあたりのレベルアップを図らないと,個別化医療は成功しないと思っています。
春日先生たちが Nature Genetics に KCNQ1 の多型が糖尿病の発症に関係し,オッズ比が 1.4 倍と報告されました。 すると,新聞記者が書いた記事の主旨は,この成果に基づいてリスク診断が可能になったということです。 それは間違いで,焦点は,複雑な発症機序をたどる糖尿病の一端が日本人を対象として初めてわかったということで,これを手がかりにして,KCNQ1 遺伝子の機能が明らかになり,この KCNQ1 の発現を抑える,または賦活化するという機序で,予防薬や治療薬が開発される可能性が出てきたということなのです。 そういう意味で,画期的な発見なわけです。遺伝子解析研究は,診断方法の確立のために行っているのではありません。 GWAS も同様で,複雑な遺伝要因の相互作用により生じる疾患の予防法や治療法を開発する手がかりを見つけようと,研究をしているのです。
ですから,現在はスタート地点にようやく立てたところで,そこで「リスク診断はできないではないか。 だから,研究を止めよう」ではなく,これから新しい治療法,予防法の開発を始めることができると,研究費を獲得していかなければなりません。
福嶋 臨床応用にあたり,欧米では ACCE を確認することが必要だと言われています。A は analytical validity で,検査法の確立を意味しています。 研究では 100 回実施し 1 回でも成功すれば新事実を発見できますが,臨床では検査精度の担保が必要になります。 次の C は clinical validity で,感度,特異度,陽性的中率などの基礎データが明らかにされていることです。 3 番目の C は clinical utility で,陽性と陰性を区別することによる臨床上のメリットがあるかどうかです。 介入方法は,高血圧では減塩食,糖尿病では運動や食事制限などと共通しています。 ですから,遺伝子型で分けた場合にメリットがあるかどうかが重要になります。 最後の E は,ethical legal and social issues,倫理的な問題です。遺伝子型を調べることによって,より良い介入が可能になり健康が保たれる場合でも, 「糖尿病になりやすい人はうちの会社では雇わない」といったように,遺伝子情報によって差別されうる社会では,遺伝子検査は受け入れられないことになります。 この確認のプロセスは,遺伝子に関して適切な理解のある社会をつくる大前提になるので,きわめて重要です。
福嶋 「遺伝学の不毛」ということが以前から言われています。 日本人は,遺伝を自分の問題として考えていない人がほとんどなので,長期的にみて,学校教育に組み入れていくことが必要です。 一人ひとり違う多様性の根源は遺伝子の違いだということを,教育の場でしっかり教えていかなければいけません。
それまでは遺伝情報を扱うときには,その説明にたけた人に関与していただくのがよいと考えています。 私たちは,臨床遺伝専門医や,非医師の遺伝カウンセリング担当者としての認定遺伝カウンセラーを養成しています。
もう 1 点は,個別化医療は個人に焦点が当てられがちですが,これはパブリックヘルスの領域でもあります。 先ほどの薬剤性肺障害や抗リウマチ薬の副作用など,薬理遺伝学的検査が有用だと言われています。それに類似するのが輸血です。 血液型を調べたうえで輸血をすることには,100%の意義があります。 けれども,病気のなりやすさや副作用の起きやすさは確率的な情報なので,遺伝子検査後に薬剤の処方を決めれば,副作用で苦しむ人の数を減らすことができ,集団としてメリットが出てきます。 ただ,各服用者に「あなたは副作用が起きませんよ」とは,輸血と違って言えません。集団ではメリットがあり幸せな人が増えますが,個人に対して「あなたは 100%大丈夫です」とは言えないのです。 そこのところを十分に理解してもらわないといけないと考えています。
萩原 ある遺伝情報があって,その情報に適した薬,または適した介入方法が臨床試験から予想できます。 ただ,それが本当に有用かどうかは,前向き試験をする必要があります。すると,相対危険度が小さくなればなるほど,有意差を出すために多くの被験者が必要になります。 そのあたりの数字的な考察など,いかがでしょうか。
春日 おっしゃるとおりです。GWAS によりわかってきたような,オッズ比が 1.5 以下という糖尿病関連 SNP では非常に難しいと思いますね。 薬剤性肺障害は非常にクリアーだから,まだ可能性があると思います。糖尿病などの場合,ようやく 10 くらいの SNP がわかってきた段階ですが,そのうちの悪いものをすべてもっている人, 良いのを全部もっている人で糖尿病の発症がどうなるかという検討はできていません。
なぜなら,われわれが集めているサンプル数は多くても約 5 千人の糖尿病の患者さんですから,SNP すべてが悪いもの, あるいは全部良いものをもっている人の数は非常に少なくなります。すると,統計学的に有意差を出すのが難しくなります。 しかも,介入を行おうとすると,さらに困難になります。ですから,糖尿病などは一国で行うプロジェクトではなくなってきています。 糖尿病領域では現在,世界中で,何万人という規模の共同で行う臨床試験が進行しています。
萩原 最後に,一言ずつ,お願いできますでしょうか。
松原 日本の医療全般に言えることかもしれませんが,医療従事者側と被験者が,一方は「調べる人」, かたや他方は「何かしてもらう人」というように,対立関係にあるように思います。 米国の患者会に参加する機会があって驚いたことは,患者組織が研究に非常に協力的なのです。 「私たちはこういったことをしてほしい。そのために,検体は集めるから,どんどん調べてください」と,患者団体が積極的に動いておられます。 すると,加速度的に種々のものが進みます。こういうことは,日本にはないように思いました。
臨床試験は資金を投入してどんどん行えば,被験者を集められるという面もありますが,それだけではなくて,患者側の希望・要請を重視することが必要かと思います。 患者さんたちに,医学の進歩のために自分たちも一員であり参加しているのだという意識をもってもらう必要がありますし,そのために医療従事者側はさらに努力をしていかなければいけないと思います。
医療倫理に関連しても,遺伝子の検索など,医療従事者が患者さんに対して「何かをしてあげている」という感覚が根底にあると,関係がぎくしゃくするのではないか。 そのあたりを私たちが少しずつ変えていく必要があると,感じています。
春日 遺伝素因と環境要因の相互作用を解明するのはなかなか難しく,これは今後も重要な研究テーマと思います。 先ほどのデータを信じるのであれば,オッズ比の低いひとつの SNP は糖尿病発症にはそれほど大きな意味はもたないということになります。 もちろん,これらの SNP が数多く重なったときの効果も検討しなければなりませんが,もう少し違うかたちのゲノム情報,エピジェネティックス(epigenetics)みたいなものも, 今後は糖尿病あるいはその合併症の発症に関与しているか,検討しなければならないと思います。
福嶋 現在,いわゆるオーダーメイド医療が不適切に広まりつつあります。 1 つは DTC(direct to consumer)で,従来の臨床検査は採血という医療行為が必要でしたが, DNA は,頬の粘膜,爪,毛髪などから採取でき,インターネットで遺伝子検査を依頼することが可能になっています。 直接消費者に提供される遺伝子検査が普及しつつあり,それらの検査は根拠のないものがほとんどなのです。
ただ,日本人は血液型で性格判断をする傾向があります。類型化して,ものごとを考えるという性向には,十分な注意を払わなければなりません。
松原 社内の配属を決めるのに血液型で決めるということも聞きますよね。
福嶋 そういうところから,オーダーメイド医療・個別化医療をうまく利用して商売にするといったことが普及し始めているのです。 それは好ましくないと思います。きちんとしたエビデンスに基づいた医療の提供を行おうとしているものと, わけのわからないもので類型化しておもしろおかしく行うということが,一般の国民,十分知らされていない人では区別できません。
われわれがしなければいけないのは,研究か診療なのかをきちんと意識したうえで,その情報を使っていくことと, またある程度のところで有用性の客観的な評価,それを認証するシステムが必要だと思います。 評価が必要なのですが,国はまったく動いていません。ゲノム解析研究は,ミレニアムプロジェクトを契機にして,大きな予算がつきましたが, 最近は,臨床への応用のシステムを開発する研究を新たにしていかなければいけない,と思っています。
萩原 本日は,個別化医療という,非常に広い分野をかいつまんで話をしたかたちになりましたが, いずれにしても大きな国民の期待があることは間違いありません。等身大の遺伝情報を正確に伝えるということが個別化医療を実現していくための第一歩でもあり, 重要な方策でもあるのではないかと考えています。どうもありがとうございました。