■治療学・座談会■
増加する内科系救急患者への対応
出席者(発言順)
堤 晴彦
(埼玉医科大学総合医療センター高度救命救急センター)
明石勝也 氏(聖マリアンナ医科大学救急医学)
浅井康文 氏(札幌医科大学医学部救急集中治療医学,高度救命救急センター)
奥寺 敬 氏(富山大学医学部救急・災害医学)

救急医療と救急医

■各地域の要請に応じて発展した部門

堤 本日は,社会的問題としてマスメディアに広く取り上げられている救急医療の現状について, 私立大学,公立大学,国立大学のそれぞれの立場から,お話を伺っていきたいと思います。

 救命救急センターが初めて創設されたのは 1970 年代ですが,当時は交通事故による外傷への対応が中心でした。 それが時代とともに変遷し,内科系の救急患者をどんどん受け入れるようになってきました。

1 私立大学:聖マリアンナ医科大学

堤 最初に,各施設でどのような救急医療が行われているのか,簡単に説明していただきたいと思います。明石勝也先生からお願いします。

明石 聖マリアンナ医科大学には 4 つの傘下病院があり,そのうちの 3 つに救急施設があります。 まず聖マリアンナ横浜市西部病院(500 床)は,三次救急に特化した救命センターで,今のところ ER(救急初療室)の機能が完備していません。 一方,川崎市にある聖マリアンナ医科大学病院の周辺にはまったく救急病院がなかったという地域がらで,一次から三次救急まですべてに対応せざるをえない状況でした。 それで,教育のツールとしても活用するような施設として,ER とクリティカルケアの両方をこなせる現在の救命救急センターへと発展させました。 もう 1 つは川崎市立多摩病院で,指定管理者として聖マリアンナ医科大学が請け負っています。 三次救急ではなく,外来中心の救急センターとしてレベルの高い ER 機能をもっており,逆にクリティカルケアは行っていません。

 救急医療は各地域のニーズを満たしながら発展してきたという背景があり,聖マリアンナ医科大学は施設を 3 者 3 様に運営しています。これが大きな特色と言えます。

堤 救急部門は,各地域のニーズに応じた手作りのため,一般的に“これだ”という形がありませんね。

明石 そのとおりです。

2 公立大学:札幌医科大学

堤 浅井康文先生のところはいかがですか。

浅井 札幌市は,日本で最初に夜間急病センターを設置したことにみられるように,救急医療に対して先進的な地域です。 多数の交通事故死が問題となり,交通戦争といわれた 1971 年に,「災害外傷部」が札幌医科大学に設立されました。 一般的な救急医療の歴史からみると,かなり先を見通した設立だったと言えます。 その後「救急集中治療部」と改称され,現在救急部門は全国で 12 番目の高度救命救急センターになっています。 三次救急が中心なので,現在は教室員には札幌市内の病院へ出向し,一次,二次救急も学んでもらっています。 二次から三次救急の適応になる患者,あるいは急変することもありますから,若い人にはなるべく多数の疾患を経験して,広い知識を得てほしいと思っています。

 「救急医学」,「集中治療医学」,そして北海道は非常に災害が多いので「災害医学」,さらに亡くなった方の意思をいかすという意味で「臓器移植」,これら 4 つの柱で教育を行っています。北海道消防学校や札幌市消防局に講師を派遣するなど,メディカルコントロールを含む教育面も重視しています。

 もう 1 つは,救急医療では連携プレーが重要となるので,内科系,放射線科,リハビリ系の先生方にも自由に出入りしてもらい, ディスカッションを通してレベルアップしていこうという姿勢をとっています。 実は,それで非常に助かっているのが神経精神科患者への対応なのです。 以前は,1 本でも点滴をしていると転科に対応してもらえませんでしたが,今はリエゾン精神科に即座に相談ができ, 転院,転科もスムーズにいっています。そういう点で,診療科間の風通しが良くなってきています。

図1
図1 札幌医科大学における救急医療システム

3 国立大学:富山大学医学部

堤 奥寺敬先生のところはいかがでしょうか。

奥寺 富山大学医学部(旧富山医科薬科大学)は 1970 年代に設立された新設医科大学というグループに属し, 同時期に 18 大学が設立されました。私が救急部に初代教授として赴任する前の約 25 年間は,各診療科が交替で当直にあたっていました。 救急部が設立されて 5 年しかたっていないため,今はまだ模索期間です。3 年後に救命センターができる予定で,現在,人材育成を推進しています。

 大学病院の特徴は教育を担っていることで,内科系の先生方にどうやって救急医療を研修してもらうか,関心をもってもらうかが課題となっています。 そういう意味では,臨床研修制度の変換期である今,最もホットな場所にいるのかもしれません。同様の問題はおそらく全国津々浦々で起きていると想像できます。

■救急医への道のり  

1 循環器領域から

堤 少々個人的な話題になりますが,先生方はなぜ救急医療の道に入られたのでしょうか。

明石 私のスタートは循環器内科でした。当時は PTCA(経皮的冠動脈形成術)の黎明期でしたから,循環器疾患の急性期がとても身近だったのです。 大学の救命救急センターで内科系のチーフのような存在としていろいろ任され, どのような患者に対しても内科も外科も一緒にスタッフ全員で診るという流れを通じて,救急医療全体がだんだんみえてきました。 そのうち,私にとって非常に興味深い分野へと変化していったのです。

2 胸部外科から

堤 浅井先生はもともと胸部外科でしたね。

浅井 はい。そして,3 年目に災害外傷部の助手になり,この 2 年間の貴重な経験で私の運命が決まりました。

堤 上司からの任命ですか。

浅井 そうです。そして,その時に遭遇したのが北海道庁の爆破テロ事件で,初めての災害医療との関わりでした。 2 年後に胸部外科に戻り,人工心肺担当を 3 年間行いました。その時の経験が経皮的心肺補助装置(percutaneous cardiopulmonary support:PCPS)などにつながっています。実は,除細動器を日本で初めて作ったのは,札幌医科大学の胸部外科なのです。 その後,植え込み型除細動器に関わり,現在は AED の普及に努力しています。

3 学生時代からの意志で

奥寺 私は救急が好きで,学生時代から救急をやりたいという思いがありました。 出身の信州大学では,当時脳外科に赴任された先生が救急部門を立ち上げられ,そこに入れてもらうことになったのです。 当初は脳卒中などが多く,また長野県は人手が十分でなかったため,必要に応じ,麻酔など,なんでもこなしました。 出向して大学へ戻ったあと,松本サリン事件が起きました。これは明らかに救急固有の事例でした。 ここで中毒の特殊な症例を経験し,次は長野オリンピックのメディカルディレクターという新しいポジションを与えられました。 ここで救急医療システムの運営などを経験し,救急にのめり込んでいったのです。

 救急医療の知識はどんどん水平に広がっていき,さまざまなことがわかってくると「これより外は門外漢」という壁の意識がなくなります。 非常に興味深い分野で,「おもしろいフィールドだ」と学生に語る自信は十分にあります。

堤 奥寺先生以外は,最初から救急を志したわけでは必ずしもなかったのですね。 救急という受け皿をつくることによって異なる文化が交わり,新しい文化が生まれる,そのようなイメージが救急にはあります。 そういう魅力を理解してほしいですし,若い人に伝えていきたいですね。

明石 以前は現在より横断的な知識の交流というのははるかに少なかったのですが, 私自身,救急で外科医やほかの救急医たちと一緒に診療するようになり,多くの発見がありました。 たとえば外科系の先生のなかには「ショックは内科にはわからない」と思っている人が多数いました。 案外,互いに技能や知識のレベルを理解し合えていません。それが救急という場で“共存する”ことにより,相互の知識を“共有できる”のです。

■行政の担う役割と責任

堤 救急医療においては,だれが地域でその責任を担うのでしょうか。

奥寺 大学病院には,一定の責務があると思います。教育も兼ねている場ですから,人的余裕がいちばんあるはずです。 特に地方へ行くと医師数は圧倒的に不足していますが,それでも大学病院には人的資源があるように思います。

堤 たとえば富山県では,富山大学が,全県をある程度カバーした体制をつくれるように思えます。一方,北海道は大きいので,それはむずかしい気もします。

浅井 北海道のなかでも札幌市は恵まれております。 人口 187 万人余の都市に,救命救急センターが 4 つあり,心臓や脳外科などの専門病院が多数あるのです。 たとえば中村記念病院は,脳外科の先生が 40〜50 人と非常に恵まれています。 しかし他の地域では,脳外科医が撤退するなど,悲惨な状況になっています。 そういう格差をいかに埋めるかが非常に重要ですが,実は後期臨床研修でも,その格差が広がっています。

堤 現場の医者が窮状を訴えてもなかなか状況が変わらないというジレンマもありますが,そのあたりはいかがでしょうか。

明石 救急医療は社会のセーフティーネットの代表です。これに関してわれわれは実行者ですが, 整備していくのは行政の非常に大事な仕事だろうと思います。それが,わずかな費用で成り立つ地域もあれば,ばく大な投資を要する地域もあり, どこに平均点を見いだすかという点が問題なのです。救急医療の崩壊は,救急から撤退するなどの供給の低下と,国民の要求度が非常に上がっているという需要の上昇, これらのアンバランスの結果だと言えます。

奥寺 私のところにも多くの地域から病院長がみえて,「外来と当直だけをしてくれる救急医を出してほしい」と要望されます。 救急医も入院患者が診たいし,特定の領域の専門性も発揮したいのです。 ですから,「当直だけに対応する医者はいません」と応えています。 救急患者の増加への対応を私たちに期待するのはわかりますが,そのあたりのギャップが大きくなっている気がしています。

堤 北海道の行政はいかがでしょうか。

浅井 5 年,10 年の大きな医療計画がありますが,経済的な裏付けも十分でなく,実践的ではないように思えます。 もう少し地に足が着いたことを考えてほしいなと思っていますね。ドクターヘリも,本来はまず第 1 番目に導入すべき所なのに,まだ 1 機しか導入されていません。

奥寺 それは富山県もまったく状況が一緒です。 ですが,多くの地方は医療計画ができており,それらの計画の細部も固められつつあり,“これは可能である”という文脈が出てきます。 まず,救急医療が社会に対して何をしているのかを洗い直していくことが必要で,さらには実態を深く掘り下げて議論していかないと,行政の果たすべき役割は出てこないと思います。 とことん議論したほうがよいのではないでしょうか。

 また,救急医療の問題では,頻繁に“たらい回し”という表現が使われますが,「富山県にはない」というのが県の見解であり,よく不思議がられます。 というのは,1 つの行政単位に 1 つしか病院がない場合が多いので,回したくても,たらいを回す,つまり患者を転送する先がないからです。

 これは,地域格差が大きいことの表れのひとつで,救急医療をひとくくりにして全国を同じ尺度で比較するのは無理なのです。 国民は同じレベルを求めますが,各地域で相当の差があることを国民に理解してもらう必要があります。 一方,こちらも努力していることを示さなければいけません。

堤 救急医療を行う側の発言が非常に重要になると思いますし,発言をし続けていかないといけないですね。

■いまだ未確立な領域

浅井 社会へのメッセージとして,北海道の日鋼記念病院が全国で初めて救命救急センターを返上しました。 病院内の事情もあったのですが,脳外科や整形外科,循環器科の医師が撤退していったからです。

堤 それを北海道内の行政は大きな問題にしていますか。

浅井 問題にしていくべきなのですが,それが意外と目立っていません。 日鋼記念病院は新型の救命救急センターが備えられ,日本医療機能評価機構病院機能評価認定第 1 号でした。 そこが,このような事態に陥っているという状況なのです。

奥寺 研修医にも評判が非常に良く,卒後研修でも全国区の病院のひとつですね。 そこが崩壊したということは,研修医に対しても良い影響を与えないでしょうね。

浅井 過去には外科や麻酔科なども苦難の道を歩んでいますが, 救急医療の歴史は,日本救急医学会がまだ 36 回であるように浅く,まだ十分に認められていない領域だとも言えます。

奥寺 それは,横断的でつかみどころのない分野であり,この座談会でも救急医療への考えが各自で微妙に違ったりしています。 ここでは共通部分が大きいから対話が成立しますが,人が替わるとスタイルが変わってしまうのは,ある意味で,まだ確立されていない未完成な領域だからと言えるかもしれません。

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